徒歩十分のロードムービー / 第六話

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僕は風邪をひいてしまい、起きてから咳がひどく、動くと余計に悪くなりそうだった。

その日は布団に入ってゆっくりしていたかった。熱があるみたいだが、体温計がない。布団の中が熱い、このままでは布団が燃えると心配した。腹が減ってコンビニエンスストアに行くのもひと苦労だった。

オノの家には野菜しかなかった。野菜は生で食べるにはツラく、野菜は見かけ以上に丈夫で、食うのに体力がいる。こんな日に食べられるものではなかった。それならと、コンビニエンスストアで売っているジャンクフードのほうがまだましだ。野菜に比べればよほどソウルフードだった。

食って寝てを繰り返した。

午後五時を告げる区内放送が遠く聞こえた。どこか窓が開いていた。カーテン越しの外は暗くなろうとしていた。

起き抜けに煙草咥えるが喉が痛い。鏡に向かって口を開けのぞき込むと、喉の奥がほんのり赤かった。今更ながらうがいをして、多めに水を飲んだ。

汗が止まらなくなった。飲んだ水を全部出すぐらいに汗をかいて、下着が肌に張り付いた。

風呂に入ると体が重い、熱いシャワーが頭にかかると立ちくらみに襲われた。気づくと鼻から血が垂れた。血は鼻の頭を伝って落ちて、風呂の床に赤がにじんだ。血がすーっと排水溝に一筋延び流れた。ぽたりぽたり、その繰り返しをじっと見ていた。

子供の頃こうして遊んだのを思い出した。滴る血を手で受け、さっと手を払うと面白い。飛沫が壁中に広がってそれが楽しく思えた。小さいときはなんでも楽しさに変わり、時々激情にも走ったが、長い夏休みでも暇つぶしに事欠かなかった。今の僕と言えばすぐに飽きて、いつまでも風呂なんかに入ってられなかった。

上がってタオルで体を拭うと、それに血が付いた。煩わしく流水で洗っても落ちない。そんなことしてもたついて、体もよく拭けず、寒い部屋に濡れた肌をさらすと風邪がひどくなった。

時間がたつにつれて体が重たくなった。体は火照り、節々に鈍い痛みを覚えた。鼻が詰り息がしづらい。口を開けているせいか、たまった唾があふれ出て、枕が汚れた。布団が汗をすって固くなり、寝心地が悪く、抜け出してまた水を飲んだ。ついでに洟をかんで、痰を吐いた。それに血が混じっていて、それが仄暗さでよりいっそう黒く不気味に見えた。コップに残った水でそれを流した。

もう寝付けず、どうにも時間を持て余し、せき込みながらも煙草を吸った。鼻が詰まって何の味もしなかった。火を消すと手持ち無沙汰でいてもたってもいられなくなった。

寝るために酒を飲んで、布団にぐっと沈んだ。横になると半身が埋まっていく錯覚を覚えた。瞑ると目が回り、それでも眠ろうと閉じたままでいると上下がわからなくなっていった。たまらず目を開けて、床の平行線が見えると、歪んだそれが次第に真っ直ぐになっていった。

僕はじっと意識を失うのを待った。僕は考えてしまっていた。知りもしない探し物を探し始めることはできないし、かと言ってもう知ってしまっているとしたら、もう答えが出ているのだから探す必要もない。なら一体僕は何を探し求めているのか。

布団の中でただじっとしていて、煙草の幻覚も収まって眠れた。玄関が開いた音がして目が覚めた。少しましになっていた。

オノがフォー!と叫びながらスーツ姿で帰ってきた。
「頭に響くからやめてくれ」と僕はオノに頼んだ。

それでもオノは黙ってくれない。
「風邪なんか引いてる場合ちゃうで」と大声で言った。

花の金曜日だとわかっていた。ただ僕はいつでも休みで、曜日なんてもう意味がなかった。それでもオノは僕の布団を問答無用で引っぺがした。オノは周りにいる人間全てがこの日を待ち望んでると勘違いしていた。オノの中では週末は誰だって準備万端だった。

僕が咳をすると「咳き止めよう」と平気で言ってのけた。僕も止めたくて仕方がなかった。言われなくとも自分の意思で止められるものなら生まれた時から止めたいと思っていた。

オノは風呂に入ってラフな格好に着替えると「お前、俺の家に来たらいっつも風邪ひいてるよな」と言った。僕はオノの前で風邪を引いたのは一回こっきりで、これでたったの二度目だった。オノはそれでも「いつも」を使う。あんまりだと思った。

もう遅い時間だった。オノはお構いなしに近くの飲み屋で約束していると言って僕を連れ出した。

僕はできるだけ着こんで、外に出た。店は歩いて数十秒、エレベーターに乗ってる時間のほうが長かった。小料理屋は閉店なのかもう客はなかった。オノはここの店員と仲が良い。それで常連てわけでもなかったが、僕の為に一席設けてくれたみたいだった。
「こんな小料理屋に通うようになって儲けてまんな」と僕は嫌味を言ってやった。
「当分飲まれへんからちょっといいところでってだけやん」とオノは言った。

中野坂上で暮らしていた時、腐った居酒屋でうまいと言っていた当時のオノの言う台詞ではなかった。それが今ではフルーツみたいな味のする日本酒片手に懐石料理にみたいにちょろちょろと大皿に何種類もの料理が乗ってる肴をつまんでいた。
「もう今の会社から逃げられへんな」とオノに言った。
「ほんまやで、アキラちゃんも大阪帰った時どうせすぐ戻ってくると思ってたらすんなり就職してもうて。え!ってなったわ。それでチバもお前もみんな帰ってまうからもう遊び相手おらんやん。お前大阪帰ってどうするん?」
「知らん。とりあえずゆっくりするよ」
「仕事しろよ」とオノは笑った。「休んでても暇やろ」オノは続けた。
「とりあえず働きたくないわ。貯金なくなったら嫌でも働かなあかん様なるやろ」僕は金がないことを重々承知していた。家も裕福ではない。頼る人間も一人だっていやしない。いづれは働くことになるのだ、暇するだけ暇してやると思った。
「そうや、どうせやったら免許でも取りに行けよ。働き始めたらどうせまた免許取れんようなるんやし」

恥ずかしい話で、大学に通って暇してたくせ、僕は車の免許すら持っていなかった。一度バイクの免許を取ろうと教習所にも通ったことがあったが、仕事のせいにしてそのまま二十数万円を無駄にしたことがあった。
「金ないし無理やな」

僕が言うと「もう働けよ」オノがしつこく言ってきたものだから、だんだんと腹が立ってきた。日本酒が巡り、顔から首筋にかけて赤くなった。僕は酒に弱く、すぐに顔に出るたちだった。
「旅行の話しあったやろ、やっぱ行かんわ」

僕がそう言うと、オノはすごく驚いていた。
「え、なんでなん?」すぐ返してきた。
「理由なんかないよ。別に行きたくなくなっただけや」僕は言った。金が本心だが、こんな僕に説教を垂れるやつと楽しめるわけがないと、そう思った。翌日酒が抜けてみれば当たり前のことしか言われていなかったと後悔するだろうが、どうしても我慢できなかった。それにオノが「やっぱ五万きついか」と追い打ちをかけて、僕は意地になってしまった。
「もうええやん」て僕はその話を切った。もう引き返せなかった。
「そういえば、彼女おらんの?」僕は話を変えた。オノはまださっきの話をしたい顔をしていた。
「おらんよ」オノが素っ気なく答えて余計に聞きたくなった。
「出会いもないんか?お前やったら全然女できるやろ」
「出会いなんてないよ」
「ないことないやろ。クラブにでも行けばいくらでもおるやん」
「ないわ。クラブの女の子と付き合うとかないない」

オノは牛筋の煮込みを食べると「これむっちゃうまい」と言ってオノは一人で勝手に感動し始めた。
「ええやん、寂しさ紛らわすには持ってこいやろ。お前女の子とワッキャするん好きやん」

僕も煮込みを食べみると確かにうまかった。
「いや、違うやん。俺は四人で住んでた時みたいな友達がほしいねん。あの時あれやん。絶対誰か暇してたやん。今はこうやって十一時ぐらいに飲みに行こうぜって誘っても来るやつおらんけど、あん時はおったやん。それでアキラの部屋でも行ってグダグダしたり、一緒に鍋やったりできたやん。そういうのがおらんねん。そんなん女の子とできへんやん」
「中出し君やったっけ?職場の後輩の、そいつはあかんのか?」
「中田君は結婚してるし子持ちやで。そんなん誘えるわけないやん。しかも後輩って言っても俺らより一個上やし」
「あ、そうなん?あったことないけど」
「もう全然違うよ。彼女とかそんなんいらんから、こっちで友達がほしいねん。完全に友達不足やわ」
「あれは、町田で一緒に住んでた…」
「あぁ、あかん俺も名前出てけえへんわ。あかんあかん。あいつも今どこおるかわからへん」
「もう結婚して子供作って忙しくしてもうたらええやん」
「お前アホやろ」

オノは僕を切って捨てると煮込みをお代わりした。僕は一口食べただけであいつが全部食べた。これには僕も呆れて何も言えなかった。そんな顔を察してか「いやこれむっちゃうまいわ」とオノは言った。
「俺みたいに飲み屋見つけて知り合い見つけたらいいやん。チャッキーさんとこ、常連さん同士サーフィンとかスノボーとか行ってんで」
「俺ずっと思ってたけど、お前よく一人で店入れるよな。チャッキーんとこはお前に連れられたあの一回こっきりやで。一人で行っても話すやつおらんやん」
「隣に座った人と適当に話せばいいやん」
「そんなんできるわけないやん、もうあれや、今の会社で大阪支部作ってもらうしかないわ。そんな話でたら猪の一で手あげるで」
「まぁあんな部屋あてがわれて仕事辞めて大阪来るなんてもうできへんやろうな。給料上がったん?」
「そうやねん、上がってもうてん。もう逃げられへんわ」
「ざまあ」

大阪に帰ったところで、みんなは仕事で連休ぐらいしか遊べないではないかと思った。でもそれは言わなかった。その話をするとまたさっきの話にループしそうで恐かった。あとは下らない話を延々繰り返していた。

二人とも酔っぱらって、ちゃんと頭が働らいていなかった。国別の人口の話で、中国の人口の多さに驚いた。中国が日本に攻めて来たらどちらが勝つかを話した。オノはあんな人数で来られたらひとたまりもないと言っていた。僕は人を移動させるのがどれだけ大変かと説いて日本が勝つと、そんな風に言い合った。

意味のない下らない話だったが、やけに熱中した。高校生の時、大阪道頓堀の引っかけ橋近く、学校帰りにいつも行くカフェがあった。そこでいつもチバを合わせた三人でキャラメルフラペチーノと洒落たもの飲みながら話し込んでいた。その時も今日みたいに僕らでは到底結論が出ないような難問に何時間もかけて話した。

宇宙の外だとかヒモがどうたらと下らなかったが、面白かった。

その店のフレッシュミルクを使いチーズを作ったのには笑った。お冷を入れるカップにフレッシュミルクをたくさん入れて、それにレモン汁を加えると脂肪分が分離してフレッシュチーズが出来る。三人はほんの少しずつ、タイミングを合わせて食べた。それが酸っぱくてみんなは揃って吐き出した。どうしようもないものが大量に残り、後始末に苦労した。

結局ソファーの切れ目にそれを押し込んで隠した。それが今ではどうなっているか知らない。異臭がして見つかり綺麗にされたのだろうか、それともそのまま水分が全部飛んでからっからになっているのだろうか、そんなことを思い出していた。
「明日帰るわ」僕は言った。
「どうしたん?明日土曜やで」
「色々な」
「色々って?」
「色々や」
「そうか」オノはもつ煮を食べた。

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