徒歩十分のロードムービー / 第五話

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起きると昼は過ぎていた。薬が効いて頭が痛かった。膀胱に溜まった小便をトイレで済ますと、それがアルコール臭かった。のどはカラカラでコップ一杯の水を飲んだ。

オノがいない部屋で一人何をするでもなく、オノが脱ぎ散らかしたパジャマをクッションにしてソファーに座りタバコを二本ばかし吸った。カーテンの隙間から日差しが帯になって、タバコの煙が見えた。

僕はバツが悪くなった。

それで少し窓を開けると削岩機がアスファルトを砕いていて、たまらずすぐに窓を閉めた。

東京は暇があると道路に穴をあけている。ガス管だか水道管だか知らないが、ことを終えるとまた埋めると思うと馬鹿なことしてるなと思った。それで何万人もおまんま代を稼いでいるのだから凄い。

余計頭に響いて、またしばらくじっとしていた。窓を閉め切ると、この部屋はとても静かだ。気密性が良かった。トイレのタンクに水が落ちていたのが止まった。そしたらカチカチと時計の針が鳴った。すると、僕の携帯電話が鳴った。

僕は今日、女と会う。

君に彼女をRとしか紹介できないことを僕は謝りたい。別に照れで隠したわけではない。Rの実名は花から来ていて、似合い、はまっている。Rはその花みたいにさっぱりしていた。それにとても綺麗だった。

それで僕も考えて他に似合う名前を探したが、見つけられなかった。他にどんな花を持ってきてもダメだった。その名前にはどれだけ女の子らしいものを持ってきても何か違って思えた。初めてその名前を聞いた時、あまりに古風な名前で今ではハイカラで、それを彼女は名前に負けないくらい凛と生きていた。あんな形のピースを他で埋めよう思うほうがどうかしている。

諦めてRと君に伝えることにした。
「部活なので七時からでもいいですか」とRは言った。僕は「じゃあ七時に新宿西口でいいかな」と送るとそれで決まった。

女の子はいつもこうで、いつだって予定でいっぱいだ。いつでもスケジュール帳を鞄に忍ばせ、見ないと分からなくなるくらいカラフルにカレンダーを埋めている。十年前から予約を入れないと会うのも難しい。世の中の女の子はきっと我が国の首相よりも分刻みで予定を立てているのだ。

それに比べ僕は七時まで時間があった、ぼさっとしてようと思ったが、昨日のジュンと居酒屋で食べたフライドポテトを最後に、それから何も食べていなかった。腹が減った。

オノの冷蔵庫を見たが、食べられそうなものはなかった。グリーンカールとトマトときゅうりしかなかった。あいつはきっとサラダしか食べないのだろう。朝から晩までサラダ。太ってしまったのはどうしてか、やはりあいつはうさぎだった。

僕はオノの家でぼさっとする予定を切り上げて随分早く新宿へ向かった。

靖国通りを歩いていると、看板が所々新しくなっていて、新宿が大きな継ぎ接ぎを着ているみたいでおかしかった。ネオン管はお役御免で全部LEDライトにでも変わってしまうのだろうか。

アルタのスクリーンは遠くからでも電球一粒が見えていたが、今では綺麗になっていた。東口の喫煙スペースは追いやられ、吸い殻だらけの広場は清掃され趣も何もなくなっていた。

ミッチェルと、この東口でタバコを吸いながら話したのを思い出した。

新宿はカラスが泣き始める頃、少しばかり白んで来る。ゲロゲロ吐きながら飲んだ居酒屋で朝を迎えた老若男女がJR東口のビルに吸い込まれ、スーツ姿のサラリーマンやオフィスレディは眠たい目を擦って兵隊みたいに出て来る。旧青梅街道のスクランブル交差点でそいつらが黒山の人だかりになってすれ違う。はたから見てるのが楽しかった。カラスがアホーと鳴き思わず笑った。

仕事終わりの僕とミッチェルは冴えてて、ミッチェルはよく彼が作った話を聞かせてくれた。星空に向かって駆ける青春の話や、彼の彼女を楽しませるために作った動物の話だったり、その動物は言葉を流暢に話し、想像するだけで可愛かった。

ちょうどこんな寒い時期だった。白い息とタバコの煙が一緒になってビル風がそれを持っていった。コートを突き抜けて芯まで冷えたが、そうしているのが楽しかった。

二人がもっと話そうと決まると近くの中華料理屋に入る。チープなところで、から揚げ定食とレモンハイを頼んだ。そこで今日もから揚げ定食とレモンハイを飲んでいた。

でも今日はすぐに出てしまった。あの時は昼過ぎになっても飲んだ、ただ今はダメだった。一人じゃ十分と持たなかった。

この日の僕はいつもと一味も二味も違っていた。

丁寧にしわを伸ばしてピンとしたシャツに丁寧に埃を取ったコートを羽織り、ブルガリの香水を付け、髪もちゃんとした。張り切りすぎて西口に着くのが早かった。

おかげでどこかで誰かが困ってるらしい演説を三十分も聞かされる羽目になった。僕は聞きたくなかったが、イヤホンも持っていなければ聞きたくないことをシャットアウトできる便利な耳も持っていなかった。嫌でも聞こえる。マイクを持ったおっさんは熱が入っていた。東京の寒空の下、彼も今すぐにでも火に当たりたいと思っているはずだった。それでもおっさんは演説を止めない。段々と空しく思えてきた。

新宿西口は世界で最も人の話を聞かない連中が集まってる所で、来るやつみんな自分のことで精いっぱいなのだ。自分がどれだけ綺麗な服着ているか、お金を持っているか、一度きりの人生俺が誰よりも満足に生きてると粋がるやつばかりだ。

他人に興味を持っているのは、これから女の子と二人で食事するようなやつだけだ。そんなやつらもその女の子にしか興味がない。今晩の淋しさを埋める為に日々生きている。それだけの為に昼間は汗水たらして働いてかっこつけて、本を開いて知識を蓄える。みんな偉そうにしているが、誰がどこで何をしてると四の五の言ったところで結局とどのつまりマンコかチンコだ。

ハイレグの可愛いバニーガールに原稿を持たせたほうがよっぽどいいと思った。誰も話を聞いたってわからない、他人事にこれっぽっちも興味がない。僕は新宿に現存する最古の喫煙所と小田急百貨店を行き来し待った。誰も聞きもしないのがおっさんもわかってきたのか喉がちぎれるくらい声を出していた。

Rから着信があった、受話器からのRが聞こえづらかった。僕も声を張り上げながら人だかりでも見つかるように手をあげた。恥ずかしくて堪らなかった。Rは僕に気づいて久しぶりに会った。
「すごいね」と僕が言うと「すごいですね」とRは言った。

僕はおっさんが遠いことにしか思えなかった。僕にはRの囁くような声のほうが大事だった。僕の声がRに届くことの方がよほど大切で、その叫びは邪魔だった。僕とRは西口の飲食街へ向かった。

信号を渡った頃にはおっさんの声は聞こえなくなっていた。

Rは大人になりたい女の子だった。成人式を終え、体はもう立派な女だったが、どうもR自身は自分のことを子供だと思い込んでいる節がある。きっと大人って言葉がキラキラして見えているのだろう。大人だからいいものではないが、Rにとっては素晴らしいものに見えていた。

きっと両親が良かったのだろうと思った。Rの周りにいる大人はみんな良い顔をしていて、銀座のハイクラスのジュエリー店みたいなものなのだった。Rには大人がウインドー越しに見る宝石みたいに見えていた。

僕の回りはバッタものばかりで中古でくすんだようなものばかりだったから、疾うの昔に興味は失せていた。

そんな目を輝かせているRが魅力的に映った。Rには好奇心しかなかった、恐怖心なんてこれっぽっちもなかった。

だから僕は少し残念でもあった。男と二人きりでこんな洒落たホテルのラウンジに来てしまうのはただの好奇心で、僕に一切の警戒心を持っていなかったからだ。僕を信じているわけではない。Rはこの世に悪い人なんていないとそう思い込んでいる、そんな童話に出てくるような少女だった。

Rは夜景の中のビルの間に見えた赤い東京タワーを指さし「東京タワーですよ!」と言ってはしゃいだ。
「こういうところ来たことなかった?」と聞くと「ないです!」と間髪いれずに抜けるように真っ直ぐ言った。

僕はこの時全身の水分が出てしまわないか心配になるくらいに緊張して手に汗をかいていた。別にこの子をどうベッドに持ち込むかとグズグズしていたわけではない。少しはあったがそのせいではなかった。

僕はこのバーで昔アルバイトをしていた。色んな仕事をしていた。学生の時はお金がなかった。僕が働いていた頃とは大半の人が入れ替わっていたが一緒に働いていた人も少々残っていたのは救いだった。

前田さんは久しぶりに会っても僕のことを覚えていた。最初は嬉しかった。でもやはり礼がなっていないと思った。久しぶりの挨拶で女の子を連れているのが、恥ずかしくて仕方なかった。僕はここ以外にいいところを知っていれば、と思った。

前田さんが水を持ってきてくれて、僕は背筋がピンと伸びた。前田さんはとてもかっこいい人だった。初めて会った時はスターマンを歌っている頃のデヴィッド・ボウイみたいだと思った。

そんな人が僕に小声で「彼女?」と聞くものだから僕は困ってしまった。相変わらず意気地がない。嘘でも「そうです」と言っていればよかった。

僕は相も変らずジントニックを飲んだ。ファイティングポーズを決めた時に飲んだのがドブに思えた。

Rは大きく花が開いたようなグラスに入った、ピンク色がきれいなストロベリーの甘いカクテルを飲んでいて「少しいい?」と僕が言うとストローを貸してくれた。

テーブルはどこかの喫茶店みたいに小さくなくて、椅子は深く、一人掛けのソファーみたいだった。ゆっくり腰深々に座っていたのを前のめりになったが、それでもRが遠い。重たい椅子を引き付け、やっと届いた。それがかっこ悪くていけない。

小さく細いストローで口をすぼめて吸い込むが味がしなかった。恥ずかしくて味覚が全部吹っ飛んでいた。きっと甘いだろうと「甘くておいしいね」と僕は言った。おいしいのは折り紙付きだった。別に飲んでみなくてもわかることを言った。これ以上つまらない会話は後にも先にもなかった。

もう自分で自分の体もうまく支えられず、背もたれに戻った。またRが遠くなった。

たまらずタバコを吸った。

遠くの前田さんと目が合った。前田さんは僕らをずっと見ていてくれているらしかった。きっと前田さんからすれば「なにやってんだ」と言う具合なのだろう。

僕はため息みたいに煙を吐いてしまった。前田さんがナッツの盛り合わせを持って来てくれたのには救われたと思ったが救われたのは僕で、Rはつまらなかったと思う。Rは前田さんを知らない上、僕のこともそれほど知ってはいなかった。
「あ、すいませんわざわざ、いいんですか?」
「いいよいいよ、久々来てくれたんだし」僕は火を点けたばかりののタバコを消した。
「もう他の人は移動しちゃったんですか?」
「そうだね、残ってるのはワシさんぐらいかな。店長も変わっちゃったし、アンディも今は二階に行っちゃったしね。でも今日来てくれてほんとによかったよ」
「何かあるんですか?」

前田さんは僕に少し近づいて、小声になった。
「ここだけの話だけど、俺来月でここ辞めようと思ってるんだ」
「え?どうしてですか?」
「沖縄でナオキと店しようと思ってね、ナオキはかぶってたっけ?」

前田さんはよく沖縄に旅行していたのは知っていて合点がいった気がした。ホテルのラウンジやバーはバーテンダーの修行場みたいな所で、ここで経験を積み独立する人は多い。前田さんもその一人だった。
「一カ月ぐらい一緒だったと思います。すごいですね、おめでとうございます」
「ありがとう」
「え、もう辞表は出されたんですか?」
「まだ。来週に出そうと思ってるよ」
「そうなんですか、なんかタイムリーですね、今日来れてよかったです」
「沖縄に行くことあったら。あ、一緒に店来てよ」前田さんは気を利かせてくれた。
「ええ、絶対行きます」僕はRの顔を見ずどんな表情をしているのかわからなかった。

前田さんは「頑張って」と言って去って行った。

僕は仕事を辞めたことを前田さんには伏せた。僕は「自分も仕事辞めたんです」と言って、前田さんが「そうなんだ、次は決まってるの?」と聞かれたくなかった。比べてしまうのが怖かった。

それから僕はRに、前田さんはどういう人か、ここで働いていた時のことを話すしかなかった。

僕はRのことを大学生でソフトボールをずっとやってきたことぐらいしか知らなかった。だからいくらでも話は出来たはずだが、どうも僕はRを知ろうとは思わなかった。乗り気でなかった。

きっと面白くないと、そう踏んだ。夢いっぱいで何にも間違ったことがないRの話が、僕には堪えるとそう思った。
「あっちにバーがあるだろ?」Rは振り向いて、その奥にあるバーを見てくれた。
「ほんとはあっちのバーからの景色が一番きれいなんだ。裏にでっかい食洗器があるんだけど、ベルトコンベアがぐるぐる回ってて、そこに皿だったりグラスを流して洗うんだ。で、その洗い場の奥に窓があるんだけど、西を向いてるんだ。ちょうど僕が出勤してたのが夕方からだったから、夕日がさ、都庁をシルエットにしてとっても綺麗なんだ。俺はその景色がここで一番好きだったよ。あっちのバーからならそれが見えるんだけどね。ちょうどここの反対側なんだ。もう夜だけどね」

バーは貸切で入れなかった。

もう誰にこの話をしているのかわからなかった。酔って、さっきよりもテーブルが広く見えた。

僕は「ここの部屋を取ってるんだって言ったら一緒にいてくれる」かと聞いた。Rは困った顔をした。

僕は「一緒にいてくれ」と言ったらRは「ごめんなさい」と言った。

会計で前田さんが社員割引を使って安くしてくれて、思っていたよりも安くついてしまった。

タクシーを捕まえようと言うと、Rは学校帰りで新大久保に自転車を止めているからと、僕はそれについて行った。僕はRを歩いて家まで送った。Rの家は新宿から歩いて行けるほど近かった。

ぽつぽつ雨が降っていた。

まだ濡れてしまうほどではなかったが、ひどく冷えた。

傘があれば良かった。自分がどう見られるかばかりで爪が甘かった。Rの家は背の高いマンションで住むところが違うと思った。Rの人生に僕と言う穏分子が混ざるのは良くないだろうと、劣等感を覚えた。

別れて一人ぶらついた。

僕はこの辺に住んでいた。

懐かしくて一人ぐるっと回って歩いた。

坂を上がる途中「ここの坂は東京でも一二を争うほど綺麗な坂だよ」と誰か言ったのを思い出した。誰が言ったのか思い出せなかった。少し雨足が強くなってコートに雨水が浸みて重たくなった。

以前、働いていたコンビニエンスストアに入った。

温かいコーヒーを手に取った。床の黒い汚れを見て夏を思い出した。

深夜、蝉がのた打ち回っていた。蝉は床に羽を打ち付けて、反動で這いずり、その度バチバチと音がなった。店内は明るかった。大理石のような模様を持った乳白色の床は真新しく、天井のライトを点々と照らし返していた。最下段の商品は意識さえすれば余すところ無く明瞭に見えた。外がいかようでも、一日中店内は昼だった。そのせいか、こんな夜だというのに蝉は時折甲高い声を発していた。聞き慣れた力のこもった音ではなく、弱々しく、その一回は短かった。

年中一定の室温を保った店内に季節はなかった。店内は少々寒く感じられた。夏の終わりかと蝉はじたばたして、飛ぶことも出来ず床を這いずり鳴いた。

仲間の声は聞こえない。

雌の匂いもしない。

引っかかりのある止まり木も見当たらない。体力のあるうちは果敢に飛んで見たのだろう。

冷えた陳列棚や透けたガラス窓に、もう何度もその体を打ち付けた後だった。あまりの障害物の多さにもうどこに迷いこんだのかすらわかるまい。自動ドアの近くに行けたとしても、小さい蝉ではなんの反応もぜず開かない。

蝉は出口から対角線上反対側、最も離れた位置でもがいていた。

暗い地中にたった一匹で数年を過ごし、やっとの思いで木によじ登り成虫しこんな所でもがくこの蝉に一体なんの意味があるのだ。

アパートがあった。四人で、アキラとオノとチバで住んでいたこのアパートは門に人が近づくと白熱電球で暗い中を照らしてくれる。お帰りなさいと言う具合に敷地の中を見せてくれる。玄関開けて一風呂浴びて布団で寝たかったが、もう自分の部屋はなく、嫌なこと思い出すだけで、薄く眺めて終わった。

ここの裏に店がある。

同じ区画で左に曲がって左に曲がればすぐだった。最初の角のあたりで後ろ髪を引っ張られ、見ると電球が消えた。優秀だと思った、人がいなくなるとすぐに消えてしまう。

赤いネオンライトが真っ暗に浮かんでいるのが見えて僕は安心した。ここは夜の七時から開くことになってはいるが、店主がいい加減で、七時に開いたことは一度だってない。酷いときは開店が零時だったする。理由はほとんど寝坊だった。店主に電話をかけて起こしたことが何度かあった。店主のチャッキーは寝起きで「合鍵の場所わかるだろ?入って待っといて」と言った。僕のこと含めて、客を客だと思ってないのだ。カウンターに座って待っていると電話がかかってきて「床でも掃いといてくれ」と言われて呆れたこともあった。チャッキーは出会った人はみな友達だと思っている節があった。

初めてここに来た客はみんなチャッキーと握手を強要され名前を聞かれる。「初めまして、僕はチャッキーです。あなたは?」と砕けた人だった。

今日も店に入ってカランコロンと扉の鈴を鳴らすと「おお、リョウヘイ!」とチャッキーはカウンターの奥から声をかける。ここの明かりは朝の五時まで消えない。始発まで六時間、僕は彷徨しないで済むと安心した。

今日は人が少なかった。ここは不思議な力を持っていて、新宿にほど近いからか、面白い人が集まる場所だった。

イカレタ街に歩いて行ける距離に住んでいると、どうしても頭がおかしくなってくる。変な電波でも出ていて、白い服で身を包まないと危ないかもしれない。

僕は重たいコートを脱いで空いたテーブル席の脇に重ねられた椅子に掛けた。僕はいつもカウンターの一番壁際で背もたれ代わりに壁を使い座る。そうしないと猫背で疲れてしまう。

色々迷うのが面倒で、ここではいつも隣で飲んでいる人を真似をする、今日は緑茶ハイを注文した。

カウンターの上は雑貨に埋もれていて、そのほとんどが役に立たないガラクタだった。チャッキーが覚えたマジックに使うトランプが三セット積んでいるが、二セットはカードが何枚かなくなって使い物にならない。電卓だと思ってONボタンを押すと静電気が走るイタズラグッズや、知恵の輪だったりルービックキューブがある。暇つぶしに置いているのだろうが多すぎる。カウンターが半分がそれで埋まっていて、肝心のグラスの置く場所が限られている。久々に来てみると金魚を飼い始めていた。カウンターの上で、ウォーターサーバーに水を張り、中で金魚が一匹だけ泳いでいる。それが二つ。客が餌をやりすぎて一匹死んだらしい。この二匹もいつまでもつか、もうずいぶんと太っていて生活習慣病はかなり末期に見えた。

客はカウンターに僕ともう一人、男だった。常連の人で、テレビ番組のプロデューサーだと聞いた覚えがあった。よくここで一緒になったが僕は彼のことをあまり知らない。

彼はあまりしゃべらない。僕よりも歳はずいぶん上だと思う。物静かでほとんど声を聞いたことがないぐらいだった。ハンチングをいつもかぶっていた。身なりはちゃんとしていて穏やかな人だった。この人は僕の話の中でも自衛隊の話が大好物で、僕が入隊して訓練を受けてからはよくその話をした。敬礼はどうするかレクチャーしたこともあった。

ヘリコプターや戦車と言った花形の話をしてあげたかったが、配属された部隊では重機を扱わず、詳しくなかった。その辺に関してはプロデューサーのほうが知っていた。

夏に富士の麓で毎年、総合火力演習をやっているが、それを見れば興奮し半狂乱にでもなるのだろう。戦車が近くで砲弾を放ち地響きが轟く。花火は空で散り、バンと音が聞こえると心臓の辺りを優しく響かせるが、戦車の砲弾は近い。耳がいい人は耳栓をしないとイカれてしまう。ただ火力演習のチケットはタダの上、抽選で一般人には回ってこない。新入隊員の研修で僕はそれを体験したが、その時のことや駐屯地出る時に見たヘリコプターの話を彼にするぐらいしか出来なかった。

僕はここでも失敗してしまう。いつもの悪い癖でまだ働いていることにしてかっこつけてしまった。

辞めたいことは匂わせたが、それまでだった。「数日前に辞めたんです」と言えなかった。

チャッキーもそんな僕の嘘を聞いていて困ったことになった。

まるで懺悔で僕はいつも悩みをここで打ち明けていた。こんな金欲にまみれた神父がいたら宗教戦争はまだ続いているだろうが、チャッキーは時間を割いて僕に説教してくれる。

こういうと癪に障るが、面白い人が集まってくるのもチャッキーの人柄からだった。結局のところ「続けたほうがいい」とチャッキーはそう言った。

もう遅かった。辞めたと僕がチャッキーに伝えられたら、もっとましな答えを用意してくれたはずだった。チャッキーには謝らないといけなかった。

玄関の鈴が鳴った。雨の中、和服を着た綺麗な人だった。舞だと気づくまで時間がかかった。いつもは奇抜な洋服を着ているから気付かなかった。
「チャッキー!バイクのシートの色変だよ。前のほうが絶対いいって」

酒で焼けた声で舞は入るなり言った。店の前にチャッキーのビックスクーターが停めてある。和服のせいか、のっけからそんなこと言うものだからびっくりした。

この人は性格も奇抜だった。僕が最後に見たのは去年の秋ぐらいで、後楽園からジャイアンツの応援帰り、オレンジのユニフォームを着た彼女だった。いつもビールを飲んでいて、常に酔っぱらっていたのか、平常が酔っぱらっているようで見分けがつかず、いつ酔っぱらったのかわからないほど明るい人だった。
「舞、いやさ、チャッキーカラーが無くてさ」

チャッキーは舞が座るだろうカウンターのそこにコースターを置いた。
「前の赤がきれいだったのに、あれじゃゴミだよ」とこの人はいともたやすくひどいこと言った。でもそれは嫌味に聞こえなかった。チャッキーはビールを注ぎながら「舞、どうしたのその格好。超良いじゃん」と言って、舞は手提げを僕のコートがかかっている椅子に置いて、カウンターに座った。
「会社のパーティでさ、もう疲れちゃったよ」

舞はチャッキーからグラスを受け取ると僕らと乾杯した。
「あれ?君会ったことあるよね?」と僕に話しかけた。
「前、巨人の試合見に行ったとかなんとか」とかかくかくしかじか言う途中に気づいたのか「あ!自衛隊の子ね!そうそうあの時負けやがったんだよ。私が見に行くときぐらい勝てよ」と言ってもう一度、僕らは乾杯した。

僕は飲み切っておかわりを頼んだ。いよいよ、仕事を辞めたことを言い出せなくなってしまった。僕は舞の和服姿を見て、Rが成人式を迎えたばかりだということを思い出した。別れたっきりで、僕は楽しかっただとか来てくれてありがとうだとか柄にもないこと書きながら成人式の写真を送ってほしいとメールを送った。

チャッキーと舞はまだチャッキーのバイクについて色々と抗議していた。舞はデザイナーで色には造詣が深いみたいだった。この日に着てきた着物は綺麗な紅白で花びらが描かれていた。
「そうだ、リョウヘイ、さっきの話だけどさ」チャッキーは僕に舞の矛先を導いた。
「舞、リョウヘイが自衛隊を辞めたいって言ってるんだよ。俺は続けたほうがいいと思うんだけどね」

そう言ってチャッキーは奥の炊事場に引っこんで仕込みを始めた。いいように使うなと思った。だが僕にとってはラッキーだったのかもしれない。僕は舞にこの話をしたいと思っていた。

僕は十分に酔っていた。だから落ち込みたい気分だった。舞だったら軟弱な僕を鋭利な言葉でもって介錯しトドメを刺してくれるとそう思った。
「ええ!?、いいじゃんかっこいいじゃん自衛隊、何が嫌なの?」舞は聞いた。
「面白くないんですよ、人間関係含めて」と僕は答えた。
「私は嫌だな。人間関係で辞めちゃうのが。逃げてるみたい。私はどんなにいじめられても前の仕事は辞めなかったけどね」
「どうして辞めたんですか?」僕はてっきりずっとデザインをしてきたものだと思っていた。
「なんかつまんなくなっちゃったんだよね」

笑ってビールを飲み干して舞はおかわりをチャッキーに頼んだ。
「つまんないって言うと?」
「なんか世の中にこの仕事いらないなって」と舞は言った。
「私は自衛隊がやりがいみたいなのがあると思うんだけどな」舞はそう続けて言った。僕が入隊してすぐの頃助教に「災害派遣も仕事だが自衛隊の一番の任務は国防だ」と言っていたことがひどく寒く思えた。

自衛隊に災害派遣を取ると何が残るのか僕にはどうにも思いつかなかった。他の隊員はその一分を忘れず日々朝早くから頑張っていた。終戦から守るものはなくなっていたのかもしれないが、中身のない宝箱を中身を見ずに一生懸命奪われない様にしていた。
「やっぱり人間関係が耐えられないですね」と僕は舞に答えた。

よくできたと思う。舞はがっかりしているみたいだったが、屁理屈を並べるよりはましだった。

また鈴が鳴った。見たらトラと言う愛称の男が「チャッキー、あれバイク貼り直したん?」と大声を出しながら入ってきた。もう酔っぱらっているらしかった。カウンターの傍に冷蔵庫があって、トラはそこからハイネケンを一本取り出すと、柱に貼りつけている栓抜きで王冠を開けて飲んだ。
「チャッキー!ハイネケン!あのシートむっちゃダサいで」

トラはチャッキーに追い打ちをかけた。チャッキーは濡れた手を拭って伝票に「ハイネケン1」ととでも書いた。
「リョウヘイやん!?久しぶり何してんの?元気してるん?休みなん?」

トラは「お疲れ、お疲れ、お疲れーい!」と座らずに乾杯した。
「お久しぶりです。そうなんですよ、休みなんですよ」僕が言い終わるのも待たないで「顔色よくなってるやん!前ぶっ倒れたって聞いた頃は真っ白やったのにな、今真っ黒やん!」と真っ黒でムキムキなトラがまくし立てた。

僕は一度この店で失神したことがあった。

入隊前の冬、その日は夜中に起きてしまって腹も減ってコンビニエンスストアへ買い出しに行った。左に曲がり次を右に行くはずが、店のネオンに誘われて左に曲がってしまった。

まるで蛾だった。それで起き抜けに時空の扉と言う日本酒に似た味のする米焼酎を一杯飲んだ。しばらく隣の人と話していたが、その日はどうにも頭がふらついた。カウンターに肘をついて手で頭を支えようとしたが、それでも頭がグラグラする。体ごと揺れ始めて気付くと僕は床に仰向けで、チャッキーが僕の頬をたたいて、リョウヘイと呼んでいた。隣で飲んでいた人も僕の足を椅子に上げて、どうにか僕の血を頭に行くように処置していた。
「懸垂とかできんの?やってや」

トラに誘われて僕は店の梁にぶら下がり、そのまま懸垂をした。

丈夫になったと思った。それでも酔っていた上に急に体を動かしたおかげで気分が悪くなった。

僕が下りると代わってトラが飛びついて懸垂をした。彼はもう三十近くだったが、まだまだ体力を持て余していた。血の気の多い人だった。僕の回数を超えるとトラは降りて「まだまだやな、まだまだ鍛えんとな」と言って僕の肩甲骨あたりを二度はたいた。酔いが回りふらつき勢いで躓いた。トラはカウンターを背にして座るとハイネケンを少し飲み、僕に取引を持ち掛けた。
「この前言ってたのが手に入ったんやけど、今からどう?」

僕は結局いくらになるのか聞いた。
「全部で一万やってんけど、リョウヘイは二千円でいいよ」とトラは持ち掛けた。
「どんな感じになるんですか?」僕は聞いた。
「人によって違うけど、なんでも疑問に思って答えてまうな、むっちゃおもろいで」

トラの言葉は僕には魅力的に聞こえた。

通り雨だったらしく、薄く星が三つ見えた。チャッキーの店の常連はほとんどがご近所さんで、トラの家も近く、歩いて行った。
中に入ったのは初めてだった。引っ越したばかりの様に、まだ雑貨が入った段ボールが二つテレビ台の横に置かれていた。肌着姿の女が一人ベッドに座っていた。

トラは床にスーツケースを広げて、衣類やトラベルグッズをケースの半分にだけ押し込んだ。トラはハワイに行くと言った。ワンルームのわりにテレビが大きかった。

その向かい側のソファーに僕はぽつんと座った。

トラは少しの間ハワイに持っていくものを部屋中から探していた。僕はその間そわそわして仕方なかった。その女からの香水の匂いが嫌に鼻についた。キャミソール姿の女は無防備に股が開いていて、パンツが僕の方から見えた。綺麗な人だった。どこか暗さがあって、でも顔は幼かった。

目のやり場に困った。

僕はタバコで香水を避け、テレビを眺めていた。意識が集中できなかった。深夜番組の内容は覚えていない。トラが冷蔵庫から缶ビールを持ってきてくれた。もうこれ以上飲めば吐くと思い断ろうとしたが、僕はそれをもらうことにした。吐くぐらい気持ち悪くなってしまえば気が楽になると思った。このままでは生殺しだった。

缶ビールでトラと乾杯し一口飲んだ。トラは缶ビールをテーブルに置いてまたハワイに戻った。僕はそのままずっと地蔵の様に固まっていた。女とは一言も話さなかった。このまま明日になりそうだったが、トラはひと段落ついたのか、やっと本棚から透明の小さなビニル袋を持ってきた。トラは灰皿の横のアルミホイルを丸めて作ったパイプを手に取った。
「これ作らしたら日本一やで」と言ってトラはビニル袋の中から葉をパイプの頭につまみ入れ、吸い口を咥え、ライターの火を葉に近づけてそれを燃やした。トラは肺が風船みたいに割れるぐらい目いっぱいそれを吸い込んだ。トラはパイプを口から話して口を閉じて吸ったそれを中でとどめた。それからゆっくりと吐き出した。煙の匂いは藁を燃やしたようだった。

トラは僕にパイプを手渡した。
「どんな感じなんですか?」僕はパイプを受け取った。
「まだ来てないよ」とトラは言った。

僕はトラと同じように袋から葉をつまんでパイプに詰めた。
「どれくらい入れたらいいんですか?」と僕は聞いた。わからないことだらけだった。もう少しかな、とトラは言いながらパイプに葉をつまんで擦り入れた。

トラが「ライターもって」と言って、僕はその通りパイプと反対の手でそれを持って「いくぞ、そしたらとりあえず息吐け」僕はその通り息を吐いて、吐ききったところ「パイプ咥えて」その通り咥えて「火」という間もなく僕は着火してぐっと吸い込んだ。実際吸っても藁を燃やした味だった。不味く干した藁を食んでるみたいで家畜になった気分だった。そのまま吐き出さず中で留めた。別に何も変わらなかった。ただ不味い物を食べたと思っただけだった。我慢の限界、僕は煙を吐ききった。口の中も喉から気管まで全部嫌な感じだった。
「草ですね」

僕はトラに笑いながら話した。そしたら、頸動脈に何か通って行くのを感じた。トラも僕ももう一服した。

テレビの左端に二時十六分の表示があり、僕は、なぜ二時十六分なのか気になった。きっと二時十五分と二時十七分の間で、それでテレビは二時十六分だって言ってるのだと思った。きっかけはなかった。小学生の頃、友達だった哲ちゃんを思い出した。哲ちゃんは野球部でもないのに丸坊主で少し変わった子だった。物静かで運動も得意ではなかった。ボールを投げてもどこかしら変なフォームで、勉強は出来たかと言うとそうでもなかった。哲っちゃんは変だったが、家族も変わっていた。哲ちゃんのおこずかいは一日一円だった。哲ちゃんはそれを毎日コツコツ貯めて、それがいくらになったかと言う話は聞かなかった。僕が知っていたのは毎日一円を貰っていたことだけだった。僕らは小学校を卒業して以来もう会うことはなかったが、中学生になって一日十円にでも上がったのか、貯金を切り崩したことはあるのか、今どうしてるのか考えた。康介はどうしてるだろう。康介は小学生の頃よく一緒に野球をしていた友達で、中学で同級生になった。今は東京にいて、一度中目黒の干物中心の居酒屋で二人で飲んだことがあった。おにぎりみたいな顔のまま大人になっていた。変わっていなかった。彼女が出来ないと二人で話してると虚しくなり、後日合コンを開いた。だが二人とも口下手で連絡先も交換できずに終わった。ヒロキヨはどこにいるのだろう、同じ野球仲間だった。ヒロキヨも東京に来ていたはずだったが、ヒロキヨには会わなかった。連絡先を知らなかった。同窓会の時、ヒロキヨの友達のカッちゃんに聞いていればよかった。同窓会で僕が長いテーブルの一番出づらい角、その向かいに座っていて、僕の向かいに座っていたのはPと呼ばれていたやつだ。Pは金持ちだった。金を持っているから上座と言うわけではなく、またま座るとそうなった。その横は白井だった。一緒に写真を撮ったのは間違いなく白井だった。

トラの部屋で僕は、目玉が左に右に僕の意思と関係なしに動いているのはわかっていた。別に僕は目を使って周りを見ていなかったから、恐くはなく、コントロールしようとも思わず、自由にさせていた。

トラが僕の肩を掴んだ。風呂場みたいに、音が反響しリバーブさせたみたいに聞こえた。トラは「チャッキーのとこ行くで」と言っていた。

僕は一歩だって歩きたくなかった。ずっとアイボリーのなんの皮だかわからないこのソファーの上で三角座りをしていたかった。それでもトラは僕を部屋から出そうとした。声が大きく、リバーブが効き過ぎてただの音になって聞き取れなかった。

トラに無理やり歩かされ、手を引かれて危なげに階段を降りた。そういえば女はどこへ行ったのか。どこにもいなかった。彼女の名前はなんて言うのだろうか。もう会うことはないだろうが、気になった。

アパート前の駐車場で僕は力尽きた。

コンクリートが段になっている所に座ると波にさらわれた。海に溺れたと思ったが波ではなかった。服の上から刺すような寒さは風だった。風は僕の体をしばらく押して揺らしたが、暗い中ぽつんと光る街燈の先に行って見えなくなった。僕はそこから動けなかった。手を膝について座ったままでどこにも行ける気がしなかった。
「そんなとこでじっとしてたら補導されてまうで」と言ってトラはビックスクーターで坂を上って行った。赤のテールランプが見えた。ずっと見える。どんどん小さくなって角を曲がると途切れて消えた。

何時だ。腕時計がなくなってることに気が付いた。トラの部屋に忘れたのか。代わりに携帯電話を見るとあれから二時間と経っていなかった。Rからの返信に気づいたのはその時だった。二件あった。
「成人式ですか!ちょっと待ってくださいね」

それが一件目だった。二件目は写真だった。振袖姿で薄化粧したRがそこにいて、Rの顔にかかる陰影で写真屋できちんとストロボを炊いて撮っただろうことがわかった。ずっと眺めていたかった。カメラでパシャパシャと撮られたことがなかったのだろう。一生懸命笑おうとする緊張が伝わってくる。手もどこか置き場のない感じがして、落ち着きのない雰囲気が初々しく見せた。物言わぬ女の目はどこを見ているのか、恥じらいでレンズから外れた視線は良く出来た彼女の将来へと僕を導いた。

良い男と一緒になるのだろう、Rからすれば突然彼女の人生に登場した僕は数いる男の中のただの一人だった。不埒で節操のない、イカレタ先輩だった。そう思うとみていられなくなった。

Rと出会った瞬間から連絡を取り一緒に飲み遊び丁寧に紡いだものがあったなら、僕はこんなところで溺れていないで済んでいたのだろうか。

二度吐いてチャッキーの店に帰ってこれた。リョウヘイと声を掛けるチャッキーを無視してトイレに駆け込んだ。三回目吐いた時にはもう胃の中には何もなかった、胃液すら出ない。胃が上下に大きく動いて痙攣しているだけだった。口の中では歯が溶けざらつく上、臭い。洗面台で口を何回も濯いだ。

鏡があった。顔を見ると死に化粧のように真っ青だった。

カウンターに座るとチャッキーに心配された。僕はチャッキーに食うものがあるか聞いた。胃はおかしくなっていたが、腹はすいていた。チャッキーはまかないで豚汁を作っているらしく、僕もよばれることにした。店にトラはいなかった。
「さっきまでいたんだけどね」とチャッキーは言った。

閉店は近かった。舞も自衛隊好きの男もいなかった。代わりにカウンターに一人、男がいただけだった。くたびれた白のシャツに黒い綿のジャケットを羽織った四十ぐらいの紳士だった。

香水の匂いではなかった。甘い香りは変わった洋もくの匂いだった。僕はこの人を知っていた。彼も僕を知っていた。
「もう作っていないのか?ほら、私に話してくれた、ロードムービーのような」
「えぇ、もう作っていませんね、どうにも僕は作り話が苦手みたいなんです、嘘くさくていけない」
彼と出会ったのは学生の頃で一緒に暮らしていた三人をモチーフにして旅行記みたいな物を作りたいとこの人に話したことがあった。
「私はよく嘘をつくがね、その嘘を本当にしてしまうことがあるよ。女と寝るようなシーンを現実でやってみせるんだ。私が考えた台詞をあたかもその場で言っているかのようにその女に演じて見せるんだ、そうしたら元の嘘は嘘でなくなる」
「そんなやつらも遠くに行っちまいましたね。浦島太郎の話があるでしょう。浦島太郎は竜宮城に行って楽しんだ帰り玉手箱をもらいますね。現実に戻ると浦島太郎は途方もない時間を過ぎていることに気が付いて玉手箱を開けて老人になるんです。もしその玉手箱がなかったら、一体どうやって浦島太郎は現実世界に戻ることができるんでしょうか。いえ、たとえ姿形だけ間に合わせたとしても、元に暮らしていた村の連中と時間を過ごさなかった浦島太郎に、居場所なんてあるんでしょうか。数十年を丘で暮らした村の人々は突然現れた老人を、はたして自然に受け入れることなんてできるのか。そう考えると、人と人が屈託なく生活するには想像していたよりも膨大な時間を消費しないといけない」
「浦島太郎は不合理の教訓だよ。亀を助けたところで浦島太郎が幸せになるなんてことはないんだ。それに君は時間が平等に過ぎているってどうして言えるんだね。三歳の頃に過ごした一時間と、今こうして君と話している一時間が同じだと、私にはそう考える方が不自然だと思うがね。タイムコードもいじれないようじゃ映画監督としてはまだまだだと思うね。ましてや、過去のカットをただ順番通り並べるだけじゃ素人で、順序を入れ替えて全く別の意味にしてしまうくらいじゃないと。記憶なんて曖昧なものに寄りかかっているとそのうち倒されてしまいかねないよ」
「僕は孤独が恐ろしくてならないんです。孤独ってやつは僕が一人のところを襲ってくる陰険で悪いやつなんです。それも一気にトドメを刺さずにゆっくりと時間をかけて僕をおかしくしてしまうんです。そうなったときに記憶の中の友人に話しかけでもしないと、僕はどうしたらいいのかわからなくなってしまう。そうやって過去の友人と話しているうちに友人は友人ではなくなって、途端に嘘っぱちの作りものになってしまうんです。話したこともないことを平気で話し始めてしまう」
「孤独はそう手ごわいものではないよ。孤独ってやつは私が一人になった時にしか姿を現さない。君はどうやら劇作家にも向いていないらしい。劇作家なら劇作家らしく女に思った通りの演技をさせてしまえばいい。喜ばせ泣かせてしまえば君の思った通りの人間に仕上がるものだ。女に愛していると言って女が愛していますと返すのも、ある一種の演劇を演じさせているに過ぎないじゃないか」
「僕は僕自身に期待なんてしてませんよ。むしろ蔑んでいるって言ったほうがいい。もし女に愛しているなんて言わせようものなら、僕はその責任できっと潰れてしまうでしょうね」
「君は君という本質があって、それから枝葉のように感情なんかが生えてきていると、そう思っているのかね?そうだとしたら全くの誤解だね。自分なんてものは、脳のニューロンみたいな網のようなものさ。君なんてものは記憶が網のように絡まってできた君らしきものでしかない。君が君自身に期待しないということは君を取り巻くものすべてに期待しないってことだよ。もちろんこの私にもだ」
「弱っちゃいましたね。僕はそんなことを言ったつもりじゃないんですがね、言葉ってのはいったん外に放っちまうと思ってたことと全く違った物に変わっちまうんですね。先生は言葉が自身を限定していると感じたことはありますか?」
「いいや、ないね、その口ぶりじゃあ言葉では言えない夢みたいなものがあるようだけどね、人間てのは知らない夢を見ることは出来ないんだよ。むしろ言葉で表現できることが君の限界だと言う方がよっぽど腑に落ちる。そうだ、君に問題を出そう。もしも君が何か探していたとして、見たことも聞いたこともない探し物を君は見つけることができるか?」

チャッキーは豚汁を出してくれた。「そんじょそこらの豚汁じゃないだろ」と得意げな顔で僕にふるまってくれた。この豚汁はすきっ腹にひどく浸みた。「色んな野菜と豚のだしが合わさってこのおいしさになるんだ」と意気揚々に僕に説明してくれた。ただ僕には別々のものが一緒になったこの汁の味しかわからず「今ニンジンの味がした」と分析する舌を持ち合わせていなかった。ただ飲みやすくて温かくておいしいとしか感じ取れなかった。何千件も食べ歩いているグルメレポーターや料理研究家ならもう少しましな言い回しを出来たかもしれない、ラリっていた僕には難しかった。

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