これができる冷酷さがあるなら移民受入に賛成してもいい

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人道的見地から、また労働力の確保の面からと様々な集団から移民または難民問題は注目されている。現在僕は出稼ぎ外国人労働者(主に中・韓・ベトナム)が集まる、半ばゲットーと化した街に住んでいる。一足先に移民を受け入れた街で生きている僕からひとこと言いたい。

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政治難民は人道上の理由から賛成、その他の移民はいかなる理由でも受入反対が僕の立場

僕は移民受入には反対だ。理由はいかなる人でも母国を捨てることは相当な不幸だと僕は思っているからだ。また、いかなる人も母国で同郷と幸せを築くことが望ましいと思ってもいる。これは合理的な科学的な根拠があるわけではなく、法的根拠に根ざしたものでもない。僕の感情だ。そうあって欲しいという願望でもある。小さな街で生まれ迷いなく暮らし、子を産み育て死んでいくことが正統な幸福だと思っている。多種多様な生き方が模索される現代であっても変わりがない。

しかしのっぴきならない事情があり、やむなく国を出ざるをえない人々、政治難民・災害難民・避難民が助けを求めるならば手を差し伸べるのが人情だ。積極的平和主義を謳ったからには積極的でなければ格好もつかない。近くであれば招き、遠くであれば渡航の内に命を落とすかもしれない、付近の国へ救援要請・援助をするのも良い方法だろう。

だが、こちらの都合で移民を呼びこむのは道理に反する。労働力が不足しているから連れてくる。家政婦にしたいからそそのかす。まるで奴隷商ではないか。経済難民を手助けするというのも奴隷商の片棒を担ぐようなものだと考えている。民主主義の我が国で政策としてそれをするということは日本国民である僕自信も奴隷商だということだ。僕は奴隷商にはなりたくない。

以上が僕の立場だ。しかし僕のそんな考えは虚しく、世論は「移民」受入に賛成の気運を次第に高めているように感じる。移民が多く住む街で暮らし直に多くの経済移民・出稼ぎ外国人を眺めている僕から、労働力確保の名目で奴隷商に堕ちようとしている人々へ受け入れるなら内政的な問題を極力避けるための施策として言いたいことがある。

決して同胞同士で暮らさせないこと

1976年「帰国奨励政策」を開始する。これは志願者全員に1万フラン(約20万円)の奨励金を支給し、移民たちに本国への帰国を促すものであったが、効果はみられなかった。

フランスの移民政策(フランス:2004年11月)|フォーカス|労働政策研究・研修機構(JILPT)より

現実的に考え、一度受け入れれば永住することを前提に話をする。

移民政策で問題に挙がるのは雇用問題と治安問題、文化摩擦の問題だろう。雇用問題に関しては今回は取り上げない。治安問題と文化摩擦をクリアするにはどうすればいいのかを考えたい。

おそらく、移民を短期間の内に、ある程度の人数を入国させればその者たち同士で固まって生活するだろう。数によって日本政府は仮設住宅を特定の地域に敷設するなど政策をとるやもしれない。もし治安問題や文化摩擦を軽減しようと思うなら、それは悪手で、絶対に避けなければならない。同国人を群れさせてはならない。バラバラに裂くようにして離れて暮らすよう強制しなければならない。縦三親等以内の家族単位が人道上限界だろうか。そして少なくとも日本語で日常的に会話できるようになるまでの一定期間(1、2年だろうか)は同国人同士で連絡もとらせないことが大切になる。理由を説明する。

僕が今居住する街になぜ外国人が多く集まるのかを考えると、ひとつに家賃が安いこと、ひとつに日本語学校が近くにあることが挙げられるが、「同胞がすでにいる」ということが一番の理由なのだと思う。なぜわかるかといえば彼らは一向に日本語を覚えないからだ。それでも暮らしていけるコミュニティがあるということだ。また、ブローカーが手引することがコミュニティを巨大化させる要因になっていると推測している。

僕の少ない観測ではあるが、日本語学校に通うような、日本という国に興味を持ち来日している方々は日本語だけでなく日本の文化も積極的に吸収し体現するきらいがある。方や、出稼ぎ労働者はどうかと言えば全く逆だ。礼儀作法などは夢のまた夢で、簡単な挨拶さえ難しい。いくら長く住んだとしても、そもそも日本に興味がなく、日本語を使うこともあまりない環境が揃っているとなると覚えることは、まず無い。その証左にここいらに住む在日韓国人一世二世の女性(かなり高齢)は未だハングルで井戸端会議を行っている。女は内という感覚は日本人よりも韓国朝鮮人は強い。内で居続けた彼女たちは日本語を必要としなかったのだ。逆に、僕の友人で帰化人がいるが、その母親(三世だったと思う)はシングルマザーでむしろ日本語しか話せない。これは最低でも幼児教育から日本語の中で暮らして来たこと、自ら働きに出て日本社会に溶け込まざるを得なかったことが要因で、日本語を使わざるを得ない環境に晒されなければ日本語や日本文化を体得しないという先ほどの話の裏付けでもある。

3つの軋轢

なぜ言語にこだわるかといえば、言葉が伝わらないと仕事にならないからだ。移住者ももちろん働かなくてはならない。そこで日本人の中に飛び込むわけだが、業務上の会話はもちろん、親睦を兼ねての意思疎通、他愛ない会話など、概ね日本語での会話を強いられることになる。だが話せなければ理解も難しい。第1の軋轢がここ、パーソナルな関係で発生する。残るか去るかの選択が迫られる。残れば日本語や日本文化を吸収する努力を強いられ、去ればまた同じことを繰り返すか、会話の必要がない職場へ集まるだろう。

そして、ライン工場などで同郷のよしみが集まり祖国の言葉で会話をし始める。ここで第2の軋轢が発生する。少数集団と日本人集団の職場、パブリックな場での軋轢だ。外国人集団は集団内で拙い会話や、もしかすると職場の愚痴で盛り上がるかもしれない、祖国の言葉でだ。それを聞いている日本人は何を言っているかわからない奇妙さを感じるだろう。そして、集団になることでひとりが日本語を熟知すればそれを媒介として同胞に指導するよう日本人は要請するようになり、ますます日本語や日本文化を習熟する必要がなくなってしまう。そしてその日本語を話せる人材が外国人同士の中でリーダーとなり職場の社会とは別の特殊な社会が形成されるやもしれない。秩序や力関係を持った社会が形成されるともう手遅れだ。

そして、第3の軋轢は日常生活、プライベートにおいて発生する。外国人も24時間働き続けているわけではない。家があり睡眠もとり、スーパーに行って飯を買う。もちろん酒盛りだってするだろう。というより僕のアパートでは日夜酒盛りがどこかの部屋で開催されているようで、夜九時ぐらいになればエントランスまで拡張したむろしているのをよく見る。そこはまさに異国である。聞き慣れぬ言葉が大きい声で飛び交い、上半身裸になっていたりとやりたい放題である。地域に住む日本人はその異様さに怯えなければならない。

知らん奴に住居侵入されたから防犯について思ったところを書く

こちらは僕が以前に住居侵入されたことを記事にしたものだ。この容疑者は外国人だった。国籍は敢えて伏せておく。僕の部屋に侵入した理由は容疑者曰く、僕の隣の彼女宅に入りたかったが呼び鈴を鳴らしても応答がなかったから仕方なくベランダから入ることにしたが部屋を間違えた、ということだった。なんともふざけた話である。僕は事件当時容疑者の声を聞いていたのでその照合のため取調中の容疑者の声を聞いたが日本語は全く話せていなかった。

先ほどから述べている通り、集団で生活できる居場所が存在すると、その居場所はまるまる外国になるということだ。だがここは日本だ。間違いなく浮いた存在になってしまう。浮いた存在はいずれ沈み均されるかと言えばそうではない。より大きいシマになるのだ。

実際に巻き込まれているせいか断定的な論だということは重々わかっている。が、僕はこの恐怖心を拭えない。だからこそ言いたいのであって「言っておきたい」のである。

最近こういった事件が起きた。

「裏コリアタウン」激変! ベトナム人進出で揺れる治安 3人殺傷事件から見えた〝民族軋轢〟の実態

産経WEST より

先に住み着いた外国人が後から来た外国人とやり合う。第3の軋轢は日本人との間以外でも起こりえるのだろう。

この恐怖心を克服するには移民苦しんでもらうより他にない

例えばベトナム人のみを受け入れることにして日本人の大多数が第二ヶ国語としてベトナム語を習得しているなら上の道を歩まずに済むだろう。もちろん無茶な話だ。

であるなら、同国人たちだけのコミュニティを作らせないことが日本の文化を移民の方々に浸透させる効果的な方法だと僕は上のことから考えている。

しかし、それは非常に残酷で苦痛を強いる行いであると同時に、自由と尊厳を踏みにじる行為でもある。僕だけだろうか、孤独ほどつらいものはないと思うのは。孤独と寒さが重なった瞬間に不意に訪れる、あのいたたまれなさは自死を選ぶほどにつらいものがある。大家族の場合にはその家族すらも裂かねばならないやもしれない。

そして同胞の仲を物理的に政治的に裂いた我々は忍耐をもって接しなければならない。

もしそれをも避けるならば、上で語った百年の苦痛を両者が舐めることになる。現に在日云々が具体例で示されているではないか。

移民をバラバラに住まわせるなど無理だ、と反論があろうことはわかっている。僕も無理だと思っている。国土を考えて物理的にも無理だろうし、精神的にも無理だと思っている。ここでもう一度僕の立場を述べるが移民の受入は反対だ。

結論

政治難民に関しては僕はいずれ帰る意思が問えると思っている。受入ではなく避難であるなら入国はありえるだろう。

だが受け入れるとなると、強いる苦痛か百年の苦痛に対して迎え撃つ度胸を現代日本人が持っていなければならない。だがその心構えはあるか? 僕はあるとは思わない。そもそもそんな軋轢は公で論じられることもないだろう。労働力確保などという薄汚い経済的観点の話だけに終始するだろう。だが手をつければ必ずしっぺ返しに遭うと言っておく。日本人から求める問題ではない、相手は考えぬ物ではない。

以上、終わり。

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