「こんなくだらないやつ」だけど言いたいことぐらい言ってのけたい。

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紀里谷和明なる人が新作映画の宣伝の一環でネット言論に痛烈な批判を呈した。僕は実際住所突き止められて会ったら笑い転げられるような人間だが、言いたいことぐらい言わせろ。

ちょっとしたきっかけで、僕はネット上の言い合いやら批判に誹謗中傷云々について考えていた。今現在、文化面ではネット上の日本語の人間交際は文化面で発展途上なのだと思う。多種多様な齟齬や弊害が生じていることが炎上やネットストーキング、ネットスラングや暴言の数々という形になって浮き出てきているのも確かだ。社会はそれを吟味し、対応し改善していくことだろう。ただ、その対処の仕方で、勧善懲悪といった形、一方が悪くて一方が善いとしてこの複雑怪奇な問題を単純に片付けられてしまいかねないのではないか? という一抹の不安が僕にはある。あれだけの人間があれだけの情報を光速に近い速度でやり取りされている空間の文化的整備という問題が単純でないことは誰でもわかりきっているはずなのだ。それなのに一刀両断、水戸黄門の印籠の如く解決策があるかのようにのたまう連中がいることに恐怖すら感じている。

「日本では内戦が起きてる」圧倒的な迫力に言葉を失った紀里谷和明氏インタビュー

この記事は紀里谷和明氏なる人が映画の宣伝を伴ったインタビューの記事だが、タイトルは主にネット上で繰り広げられる社会問題に言及したもので、内容もそれがほとんどだった。僕はこの紀里谷氏の言説に上の恐怖に近似したものを感じた。

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労働に関しての言及

ネット云々の前に記事は氏の労働観に関して言及している。

多くの人は、労働を“いいもの”として捉えていないですよね。なるべく働きたくない、休みが多いほうがいいと思っていて、『週何日休みか?』とか『有休はどれくらい取れるのか?』みたいなことばかり考えてる。

果たしてそうなのだろうか? 一般的に日本人は勤勉で働き者と言われている。氏の意見は真っ向からそれを否定している。氏の渡米経験がそう言わせているのだろう。だがもし日本人が怠け者であるならば、なぜ電車が数分の遅れを出しただけで不満が噴出するのか? なぜ、有給休暇の消化率は上がらないのか? なぜストライキが頻繁に起きないのか? アマゾンで買った商品が素早く届くのか? コンビニに毎日廃棄される程の弁当が供給され続けるのか? ブラック企業がなぜ成り立っていけているのか? アニメが量産され続けるのか? 新技術が開発し続けられるのか? 今年も科学分野でノーベル賞のメダルを手にすることができたのか? 氏の仮定では枚挙するには膨大な疑問が浮かび上がってしまう。僕の氏の言説への疑問は、「多くの人が」となぜ断言できるのか? だ。

そういう人を見ると、『それだけやりたくないことをやらなきゃいけないのか?』と思っちゃう。確かに生きていくためには、やりたくない仕事もしなければならない。楽しいことだけな訳がない。しかし、それが生きるということでしょう。休み、休みっていうけど、その休みで何をするんですか? 僕は、休みはいらないですもん。“オン・オフ”なんて言葉もあるけど、常にオンです。

氏は休暇が人類の歴史の積み重ねで獲得した知恵であることをすっかり忘れているようだ。現実的にも歴史的にも休みは取ろうと思わなければ取れない価値の高いものなのだ。学校、schoolの語源をたどれば、ギリシャ語のskhole(暇)から来ている。暇な奴しか学問はできない。その暇人集団の知恵が現在でも残っているのだから、もう少し休みに敬意を払ってもらいたいものだ。「常にオン」なんて「私は馬鹿です」と公言しているようなものではないか。氏自身おっしゃられた「その休みで何をするんですか?」という問自体が休みであっても人は何かをせずにはいられない生物であることを認めることではないか。何も休みだからといって何もしないでいられるわけではない。

だから衰退するんだと思います、この国は。“失われた20年”なんて言うけど、単純に人が仕事しなくなっちゃったんだと思う。特に若い人たちは、熱をもって突っ込んでいかないし、熱をもって泥まみれになりながらでも血ヘド吐きながらでも何かをするっていう姿勢がないと思う。そのくせプライドだけは高い。だからすぐ辞めちゃうんじゃないですか?

過労死という言葉がある。過労が原因で亡くなられた方に対してこのコメントはどう映るのだろうか。辛辣極まりないのではないだろうか。熱をもって泥まみれになりながらでも実際に血反吐を吐きながらでも何かをしようとして亡くなった方々がいらしゃった。辞められたなら幸運だと僕は思う。氏のこのコメントを穿った見方をすれば、氏の仕事こそ死ぬには及ばない”ぬるい”ものなのではないだろうか。それにそもそも失われた20年は政府の経済政策の失策や氏の嫌う外的要因が大きな要因であるという報告が経済界から提出されている。

で、こういうことを言うと今度は『熱いですね』っていう冷めた姿勢が始まる。『なんでそんな冷めていられるの?そんなに余裕あるの?』って感じます。余裕ないくせに、かっこつけて舐めたこと言ってるんですよね。そう言うことになんのメリットがあるのか、さっぱり分かりません。

これは氏の体験談だが、氏のこれまでの言説を見ていると、『熱いですね』というセリフは皮肉なのではないだろうか。その皮肉に対して「かっこつけて舐めたこと言ってる」と断言する氏が僕には滑稽に映る。

“失われた20年”もそうだし、“なぜ日本からイノベーションが起きないのか?”っていう議論もよくされるじゃないですか。で、専門家がそれっぽいことを言うんだけど、実際はその理由は誰も直視してない。“ぬるい”んですよ、一言でいえば。なんでもかんでもぬるいんです。レスポンスがとにかく遅いし、細かいところまでこだわらない。

氏がどういった環境で仕事なされてきたのか僕は存じあげないし、また氏がどれほどのレスポンスを要求しているのか知らないが、僕が経験したどの環境でも書類や報告は迅速だったし、また事細かなところまで(むしろこんなの無駄じゃないかと思えるほどに)突き詰められるものばかりだった。氏の周りだけ、映画やテレビなどの映像分野だけの特有の現象をあたかも日本全体の病だと誤認されているだけではないのでしょうか? 昨今の日本映画業界やテレビ業界からいい噂は聞きませんし。

日本人は勤勉とかよく言うけど、そんなのウソです。労働日数のデータも出てるけど、アメリカ人はまぁ仕事しますよ。働くときはちゃんと働く。対して、日本人の仕事は学校のサークルみたいに見えることもあるし、実際それでもやっていけちゃう。そりゃあどんどん引き離されますよ。

これも拡大解釈なのではないだろうか? そのデータとやらはどのデータなのでしょうか。ただのインタビューなのでそれを提示しろとまでは言わないが、僕がちょろちょろっと調べてみても日本人が勤勉でないと言えるような労働日数を出しているデータは見つからない。それと気になるのは、「アメリカ人は……働くときはちゃんと働く。」というところで氏はさっき「常にオン」を高らかに謳っていたのは一体なんだったのか。あと、仕事が学校のサークルみたいでやっていけているところならそれでいいのではないだろうか。むしろうまいことしてるなと感心するところだと僕は思う。やっていけてないのにサークルみたいだったら笑えないが。

それは外的要因のことですか?違いますよ。そこに至るには、単純に内から湧き上がるものがあったんですよ。無意味ですよね、外的要因のことを言い出すのは。外的要因の話をすれば、すべて“何かのせい”や“人のせい”になって自分の人生に制限をかけることになる。それは、きわめてつまらないことだと思います。 ただひとつだけあったとすれば、父親の教育ですね。当時から子供扱いされたことはなかったし、常に“自己責任”だと言われてきた。何をやってもいいけど、すべて自己責任。親というより、上司でした。

氏はおそらく脇の下から生まれた方なのではないだろうか。もちろん皮肉です。このコメントを端的にすれば天上天下唯我独尊ということなのだろうが、そんな人間いやしないのは常識というか当たり前だ。母国語を話さず生きてみろと言いたい。思考は言葉でなされる以上、母語の束縛をぬけ出すことは難しい。外的要因は極めてつまらないことでもなければ、無意味でもない、ましてや人生に制限をかけるものではまったくない。むしろ、外的要因があるからこそ、人は進歩し知見が開け、限界を突破できるのではないか。氏はオリンピックを見ていないのか? 人間の限界が今なお更新され続けているのはなぜなのか考えたことはないのだろうか。さらに言えば、氏が渡米し今の考えに至ったことはアメリカでの生活という外的要因がなしているのではないのだろうか。確かに、あるひとつの要因に自身のある行動を引き起こした全ての原因だと決めつけることは弱い者がよく行う逃避や合理化といった精神防衛本能で、それは一個人として克服されねばならないのだろうが、氏の言説はそういった機微を通り越して余りに稚拙ではないか。乱暴ではないか。

だって、それ以外ないじゃないですか。それ以外に何があります?いま、誰かのせい、社会のせいって、何かしら外的要因のせいにしてる人が多すぎる。それで遂には、何かのせいにしてなんにもできないからって、一生懸命がんばってる人を笑い、攻撃するヤツまで出てきた。

もし、「誰かのせい」と言う人が増えているのなら同じ数だけ「誰かのおかげ」と考える人が増えていてもおかしくないと、僕は思う。少なくとも、「私のせい」と同じく「私のおかげ」と考える人が多い社会よりはずっといい。そんな利己的な正義感で無茶苦茶する人間がいれば笑うだろうし、ことがことなら攻撃も辞さないのは当然の反応なのではないか。それとも一億玉砕の時代にまた戻ってやり直してみるのか。

そう。なんにもせずに人のせい・社会のせいにするようなヤツらが、ウイルスのような毒素をばらまきまくってるわけです。炎上させたり、“リア充”って言葉で人を笑ったり。で、それに対して今度は“がんばってる人たち”側が気を遣ってしまってますよ。炎上したらどうしよう、リア充って笑われたらどうしようって。

「リア充」って笑われたぐらいで折れる志なら……。それにリア充と揶揄されるのは口だけの行動していない人間であって、むしろ氏が毛嫌いするような人間だと思われるのだが。敵以上の敵は更に敵という思考なのだろうか。それに、単に頑張っているからといって賞賛されては困る人が大勢出てくるのではないか? 善へ頑張っているのか、悪へ頑張っているのか、この分別抜きでネットの言論は行われているのだろうか? 拙い言い争いもあるが、僕が知る限りで申し訳ないが、氏の言う”頑張っている人”軍団が正論を叩き出している場面の方がよっぽど目につくのだが。

バカじゃないのと思いますね。なんでそんなヤツらの言うことを聞かなきゃいけないのって。そういういらぬ気遣いを子供たちが真に受けちゃって、自分がやりたいこともやっちゃいけないんだって思いはじめちゃうんですよ。なんなのそれ、って思う。

ここのコメントはネット上に関してのことだが、実際、氏のコメントで僕自身、言いたいことを言っちゃいけないと思い始めかけた。馬鹿じゃないのって思いましたよ。なんでそんなヤツの言うこときかなきゃいけないのって。なんなのこいつ、って思う。

断言してもいいけど、いま日本国内では内戦が起きていると言えますよ。どういうことかというと、“がんばって行動する人たち”と“しないヤツら”の内戦。“何かに情熱を傾ける人たち”と“それをバカにするヤツら”の内戦。インターネットが普及して以降、ここ10年くらいに起こった日本の衰退は、“ヤツら”のほうに耳を傾けすぎてしまったことによる衰退だと思いますね。

ゲバ棒持って暴れまわっていた頃の我が国や、今のシリアなどに使われる”内戦”という重い言葉をよく平気で、それも「断言」して言えるよな、と思う。それに外的要因云々自己責任云々言ってた人間が今度は”ヤツら”のせいですか。もう頭の中捻じれ切ってるとしか思えない。あまつさえ、日本の衰退にまで論理を飛躍させるのだから質が悪い。

これをしたら、なんか嫌なこと言われるかもしれない、デメリットがあるかもしれない、炎上しちゃうかもしれない…。そうやって耳を傾けすぎて、姿の見えない第三者の言いなりになってる。でも、そいつらは誰なの?なんなの? 
実際にそいつらの住所をつきとめて会いに行ったとしたら、きっと笑い転げると思いますよ。こんなくだらないヤツらだったのかって。こんなヤツらの言うことを気にして真に受けてたのかって。 いい加減、目を覚まそうよ。そういうヤツらは、一体何人いるの?人数としては、すごく少数だと思うよ。そんな少数のヤツらのせいでどれだけの人たちが苦しんで、どれだけの人たちの夢がつまれて、どれだけの人たちが傷ついてるんだよ、って話です。

炎上商法なんて言葉が近頃もてはやされているのはどう説明するつもりなのか。住所突き止めて会いに行って笑い転げるって最低の人間だな。もう救いようがないほどの屑だよ。言葉ではなく身なりや住まいや地位で人の価値を決めるってことを言ってるってわかって言ってるのかね。いい加減目を醒ますのはどっちなんだ、たったひとりでも真実を伝える人間を摘むのはもう止めにしてくれ。

うん。それが風潮になればいいよね。悪く言うのはいいよ。何を言ったっていい。でも、その言ったことについてはしっかりツッコまれるっていう風潮ができればいいじゃないですか。それが匿名だとしても、言ったことに対しては責任をとらされる。

もう言ってることが二転三転で……。批判者が批判に対してつっこまれるのももちろんだけれども、それなら当初の発言者が批判されるのももちろんでしょ。なんか裏の裏が表になってここだけ同意できる。

よく、『あんな悪口、放っておいたほうがいいですよ』って言われるんだけど、放っておくからこういう社会状況になるわけですよ。いまや、少数である“ヤツら”の攻撃が10年かけてネット上を飛び出し、社会全体にボディブローのように効いちゃってる。テレビでもクレームや炎上を気にしてやりたいことや面白いことができないし、会社の会議の席でも思ったことが言えなくなってる。笑われるんじゃないか、変な質問だと思われちゃうんじゃないかって。

やっぱりテレビの話だったかと、氏には本当にがっかりでした。テレビが面白い事できないのはテレビを作っている人間が面白い物を作れていないだけであって、規制を設けても面白い物は作れるし、作られてきた。むしろ、規制があったから面白い作品もある。再三申し上げるが、これこそ外的要因のせいにするな! あと、会社の会議の席の話とネットの氏曰く「少数である”ヤツら”」とを関係づけるのは暴論。ネットやり取りと仕事は分けるでしょ、普通。

そんななかで、どうやってイノベーションを生み出すの?そんななかで、どうやってみんなが笑える社会をつくるの?誰も得をしないし、誰も幸せにならないよね。そういう風潮が、どれだけの弊害を作り出したか…。経済効果でいえば、何千億円何兆円レベルの悪影響だと思いますよ。

イノベーション(技術革新? 経済学用語?)が起こらない原因って単に投資が少ないからでは? さっきから出ている10年だとか20年というのもデフレと重なるし。そういう精神的要因以上に物理的要因、実弾(金)がめっきり減ったからではないのか? 風潮でどうにかなるなんて生やしいものじゃないと思う。いのべーしょんとやらは。それにしても何千億円云々よく平気で言えるよな。

そうだし、その“物言わぬ支持者”が黙りこくってるからこうなっちゃうわけじゃないですか。駅で殴られてる人がいて、それを知らんぷりしてるようなものですよ。放っておけばいいでしょって。でも、本当に放っておいていいの?

この言葉が恐ろしいと思ったところで、まず、言葉の暴力と実際の暴力を同一視しているし、何より、放っておかずに対処するとして、氏はどうっいった対処を考えておられるのだろうか? 少数の”ヤツら”に逆に物言わなかった多くの支持者が言葉で責めるような対処を考えているのだろうか。エスカレートして、批判者の言論を弾圧するのだろうか。どこまでを想定しているのだろうか。非常に攻撃的なこのコメントに戦慄しながら、この記事はおしまい。

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『「こんなくだらないやつ」だけど言いたいことぐらい言ってのけたい。』へのコメント

  1. 名前: 投稿日:2016/02/29(月) 10:04:52 ID:fcb881659 返信

    ネットの悪口の半分は、一般人によるものではなくて、ライバル企業を蹴落とすための書き込みなんだよ。紀里谷和明さんは敵が半分しか見えていない

    • 名前:西沢朋 投稿日:2016/03/06(日) 14:05:59 ID:79f49cfcc 返信

      少数が別アカを作りまくって多数に見せかけ、ある対象を攻撃するのを目にすることがあります。確かに、ネットの悪口の半分が貴殿のおっしゃる戦略によるものと結論づけてもいいように思います。確たるデータを収集できればいいのでしょうが……。
      ”氏は敵が半分しか見えていない”という意見は過大評価だと思います。氏は映像業界とそれに関心を持つ第三者(ファンorアンチ)にしか焦点が定まっていないと氏のコメントを読み、僕はそう思いました。業界内の体質を論じているのであれば、「そういう世界なんだな、日本の映像業界って」で済む話なのですが、氏は主語を大きくして、ネットの言論、ひいては日本人の気風にまで踏み込んでコメントしているので、それは違うのではないか? と考えた次第。

  2. 名前:うみ 投稿日:2015/11/20(金) 13:24:11 ID:1cbeb4928 返信

    お返事ありがとうございます!
    簡略化して受け取ると、有名人は言動に気をつけろという主張ですが、それだけにとどまらない思いも、よくわかります。西沢さんから見ると、世の中で紀里谷さんの主張が非常に影響を持ち、それを是か非かとするような話が盛り上がっている世の中に対して、バランスをとる形の、この記事なんですね。

    実際、本当に影響を受けて、くだらない自分を改めようとする人もいるでしょうし、紀里谷氏に賛同してそうだそうだという人もいるのだと思います。

    個人的には、体験は強いソースだと思うので、記事として悪いとかは思わないです。
    紀里谷氏の曖昧な意見を、ものすごいもの(ありがたいもの)だとしてお祭り騒ぎで賑わせているのは、やはりおかしな状態だと思いますし、そういう言葉の中で曖昧に否定されている立場であっても、言いたいことは言うべきだというのも、今回のお返事でよくわかりました。(揶揄についてもすっきりしました。横道にそれますが、映画のライトな鑑賞者はタイトルで内容を勝手にカテゴライズしてみない層もいるので、あえて邦題でカテゴライズしにくくする戦略があるようです。)

    意見に対する意見というよりも、ムードそのものに対する意見だと、今回のお返事でわかったことも、
    大きな収穫です。

    繰り返しとなりますが、お忙しい中お返事ありがとうございました。

  3. 名前:うみ 投稿日:2015/11/16(月) 16:43:04 ID:7cab8b7ec 返信

    なるほど、紀里谷氏のつっこみではありますが、西沢さんの考えや立場ががっつりと見えてくる記事で興味深かったです。

    私自身は紀里谷氏のような意見はよく拝見しますし、そういう意見を述べる人に共感する面、反発する面両方持ち合わせていますが、その思想によって怒りを感じることって少ないです。それは平静を装うというよりも、相手の文化を知りたいし、どのようなことを言いたいのか(本当の意味で)をきちんと知ろうとすれば、喧嘩腰であってもきちんと聞いて、一緒にいることとか、仕事することすらできるよなと思います。

    「日本人は~」という一般論に対するディベートだとしても、西沢さん自体のソースが一般論だったり、カタカナ語を茶化す感じだったりするので、基本的には今回の記事のタイトルの「言いたいことを言いたい(から、抑圧して権利を剥奪しないでくれ!)」の前段階の、桐谷氏がどういうことを本当に思っているのかということの考察が抜けている状態なのかなあと思います。

    歴史的背景のある言葉を気軽に使う文化が気に障るのかもしれないです。それは、どうしてなのか、結構興味があります。

    • 名前:西沢朋 投稿日:2015/11/19(木) 08:32:24 ID:d267a3b1c 返信

      コメントありがとうございます。

      紀里谷氏を本当に知ろうとおもうなら映画を見るしかないのでしょう。おそらく、彼の言葉に触れても彼を知ることはできないでしょう。僕自身、学生時分映画を撮っていたのでよくわかります。言語表現と映像表現では思考方法からして違うものです。ですから、偉そうではあるのですが、氏には言説により注意を払ってほしいという思いが氏のコメントを見て湧きました。特に、インタビューや演説などは思考から出力(言葉を口にする)までの時間が短いですから尚のこと難しい。この記事を書いたのは、氏のコメントに寄せられたはてブやblogosの記事での評価をのぞき見たからです。氏の思想に乗るか反るかの反応がもっぱらで、言説自体の曖昧さに対しては何の評価も下されていなかった。その空いた穴を埋めるためにこの記事はあると書き上げた今はそう思っています。

      その割に、僕の提出した意見のソースが僕の狭い一体験だったりする部分もあります。それは氏のコメントを批判するにはその狭い事象でも事足りると僕が判断したからにほかなりませんが、もしそらさんを含めた読者諸氏が不十分であるというなら、それもまっとうな批判として受け止めたい。その批判を僕が汲み、元の意見が余りに拙かったと反省すれば記事の修正するでしょうし、修正しないまでも今後の執筆に大いなる実りをもたらすと思います。そう考えると、紀里谷氏の能動的な人間に対するバッシングそれ自体を否定するような考え方には賛同できない。捨てる物が多すぎる。表現の自由などの自由は自由それ自体に価値があるのではなく、自由が許されることに価値があると僕は思っています。許されるために力に訴えた時代もあり、真実性で訴える時代もありました。今の日本はかなり言論に関しては自由が許されているので、よっぽどのことがない限り壊してほしくないというのが僕の意見です。

      カタカナ語に関しては僕自身の中で常日頃積もらせている鬱憤を文章に出しました。例えば、近年の洋画のタイトルは原タイトルの読みをカタカナで表記したに過ぎないものが多いです。英語読みのままのほうが良いのでしょうか、それとも90年代以前の、「遊星からの物体X(原題はThe Thing)」のように翻訳作業を加える方が良いのか、考える余地があると思います。記事で出たものでは「イノベーション」ですが、これは経済学界から離れ言論界で多用されています。新聞などの見出しで「イノベーションを急げ」としたほうが良いのか、「革新を急げ」としたほうがいいのか、僕の思想信条で計れば共に後者が良いと答えます。端的に理由を述べればわかりやすいからです。なぜ、わかりやすいかと言えば、「innovationイノベーション」よりも「革」「新」という漢字の方が日本人が触れた年数も多く親しみ深く、読んで理解できる数も圧倒的に二文字の方が多い。小学生の内に習いますし。あと、漢字はそもそも絵ですから、その1字の形や部首などから意味が何となく解るという特性があります。方やアルファベットを使う言語の単語はアルファベットの順で意味が出来てきます。innovationならinnovateに-ation(名詞にさせる接尾語)で名詞になってると解り、更に分析すれば、ラテン語のnovare新しくするにin-(内側に、を意味する接頭語)がついて刷新・改める・革新と言った意味が見えてきます。が、カタカナ語にしてしまうとこういったパッと見ただけでできるはずの解釈ができなくなる。すると、文中で使われた際に違和感が浮き出てこなくなる。読んでいてなんか気持ちが悪いなという感覚もなくなってくる。そうすれば、この文章はいいものなのか悪いものなのか判断できなくなる。僕が「いのべーしょん」と揶揄したのはそういった意味です。