外国人が多く住む街で暮らして思う「外国人移民問題」

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大阪の暗部に住んでいる身として、外国人移民に関して一言。

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僕の住む街

僕が暮らす街は大阪でも有数の暗部で、土地の人間の素行はめっぽう悪い。魚市場の近くというわけでもないのに昼から酒を飲んでふらついている人間を多く見かけるし、喧嘩もしょっちゅうで、毎日サイレンの音がどこからともなく聞こえてくる。そのために家賃相場も安く、外国人が群がっている。そういう街だ。

時節は夏で肌の露出が多く、若者は彫り物が目立つ。声もやたらと大きく耳障りで、群がり、公共の場で幅をきかせている。中年も品のない格好でいつも酔っ払っている。深夜にも関わらず、10歳満たないだろう子供を連れたファミリーをよく目にする。コンビニの駐車場は満杯だが、店内には誰も居ないことはしょっちゅうだ。喧嘩があり罵り合う言葉に耳を傾けると同じ言葉を威勢よく繰り返すばかりで馬鹿だと知れる。

どこの地域でもこういったはきだめの場所があるだろう。それがアウトローにとって過ごしやすい土地であり、そう言った場所が必要だとも感じている。だが、こういった街はどんな人間でも受け入れる懐の深い街かと言えばそうではない。こういった街はこういった街なりの雰囲気がある。それにそぐわない人間には厳しい。公共の場のトイレをクソまみれにするような汚い連中にも流儀があるらしい。汚さにも色がある、同じ異臭でも違いがある。上流の方々はそう言った街をゲットーにしてしまいたいらしいがそう簡単に行くものではない。外国人はそんな街から見ても毛色が違うのだ。

悪い街に押し寄せる外国人

こういった街は家賃の安さから外国人が集まりやすい。現に僕が暮らす街は外国人であふれている。なぜ分かるのか? 日本語を話していないからだ。

言葉の壁は大きい。出稼ぎで来ている外国人は日本語はおろか英語も話せない。簡単な意思疎通なら身振り手振りでなんとかなるだろうが、少し込み入ってきた途端にどうもできなくなってしまう。現代ではスマホで通訳も出来るだろうが、何か問題が生じた場合にその翻訳機能を使うに至るかと言えばそれはほとんど行われない。頭に血が昇っているだろうし、そもそも分からなければ調べるとか機械を使うと言った行為が共通了解にない以上それが使われることはない。

共通了解は何よりも重要だ。つい先日、コンビニに立ち寄ってみれば犬を連れて店内を行く人がいたが日本語を話していなかった。飲食物を取り扱う店に犬を連れ込むのは常識外だが、怒られている本人はなぜ怒られているのかわからない顔をしている。日本語で怒鳴られ、なにを言っているのかわからないということもあるだろうが、それでも共通了解があれば察することが出来たはずだ。怒っていたのは別の客でそれが出て行ったあと店員を叱責していた。とばっちりにも程がある。

他にも面白い現象を目にした。レジで並んでいる時だ。もし、後ろに列が出来れば急ぐ素振りでも見せるのが日本人の感覚だろうが、外国人にはそれがない。六百四十九円を硬貨でどれをどれだけ出せばいいのかわからず会計が手間取っていることは傍目からもわかるが本人に急ぐ素振りが全くないことに文化の違いを思い知らされる。他人が眼中にないのだ。他にも、もし日本人であれば集団で買い物をする際、かごをひとつに会計を一度に済ませあとで割るなり誰かが持つなりするだろうが、外国人は各々かごを持ち各々で会計をする。二台あるレジを五人のグループが少なくない時間専有していた。これはどうも中国人に多いらしい。ハングルを話す人らはむしろ「ここは私が出すから」「いやいやここは私が」というようなやりとりをしていることが目につく。

僕が住むアパートの話もしておきたい。アパートの入口で五六人の若い男女がよく酒を片手に騒いでいる。飛び交う言葉は中国語でもハングルでもないようで、おそらくベトナム語だと思う。そう広くもない入口を塞ぐようにたむろされ、間を縫うように入っていくわけだが、僕に対してなにか注意が払われることはない。ただその場での話題を楽しみ続けているだけだ。ここにも違和感を感じる。普通なら身を寄せ道を広げるなり、こちらを見るなりあってもいいはずだがそれもないのだ。

ではこういった人々が日本に長く住み続けると日本の習慣が根付くかと言えば、それは淡い期待だと僕はいいたい。

もし、単身で別文化に身を投じているなら、その人間はその文化風習を学ぶことだろう。そうでなければ生きていけないからだ。だが、ここいらに住む人間はそうではない。先程から言っている通り彼らは彼らのグループで行動している。おそらく案内役がいるからだろうが、外国人を集団でここいらに連れてくるお陰で、本人たちは同じ言語や文化を持つ仲間の中で暮らせる分安心が得られている反面、日本に溶け込まずに済んでしまっている。僕はここに問題を感じている。

移民の問題点

異郷の地で同郷の人間と出逢えば安心を覚えるのは人の心だろう。ましてや移民となれば一世一代の大勝負だ。できるだけ多くの仲間と一緒に行動したいところだろう。彼らは群れて行動する。そうなれば、いつまで経っても日本語を話すことができず、風習も根付かないまま、それらが子供を産み家族を形成することになる。そんな子供が一人二人なら義務教育の集団生活で、(その子ども自身「違う」という辛酸を嘗め、不幸を味わうことはこの際瞑り)、日本の言葉や文化を吸収することは可能だろう。だが、もし移民の規模がもっと大きくなればどうだろう、生徒の半分が外国籍ということも十分にあり得る。そうなれば、日本人の側が少数派になるのではないだろうか。現に僕が通っていた中学校では同窓生の半分が外国籍だった(そんな中学から高校に上がり、僕の認識と他の校区からの人間との認識のギャップに驚いたりもした)。そして、僕の同窓生は本来生粋の日本人では悩まないだろう通名の問題や国籍の問題に四苦八苦している。それも役所に出向いて色々話すことができるのも3世4世と世代を経てやっとの話なのだ。その間に顕然した日本と韓国の個別の不幸や社会問題はニュースなどでご承知の通りだろう。

とかく移民は安定化に時間がかかる上、結果は不毛なのだ。やらないに越したことはない。やるならそれなりのメリットがなければ到底賛成出来ない、と言うのがそういった街で暮らしてきた僕の見解だ。

昨今、移民受け入れが進められているようだ。謳われる理由は人材確保以外に聞こえてこない。一部の経営者にとっての金銭面のみ有益であろうが、その他の大多数の日本人やその他の価値観からはまったく肯定できない話ではないか。民主主義が聞いて呆れる。そもそも在日問題を抱え未だ解決できない人種がなにを偉そうなことを言っているのか甚だ疑問だ。移民を受け入れる器も資格もないと言いたい。

以上

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