<試験に絶対出る教育問題>に挑戦してみた

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面白そうな話題だったので、僕なりの教育論、展開してみたい。

きっかけの記事はこちら。

[雑記]日本の教育行政はそもそも何を目的としているのか

この記事に登場する友人の設問に僕も挑戦したい。

<試験に絶対出る教育問題>
以下の問題に答えよ。制限時間なし.
1 欧米に日本のような予備校や塾はない。
  なぜ日本ではダブルスクール化が進んでいるのか。
2 社会に出て必要な「法律」も「経済」も教科にないのはなぜか。
3 「受験」と「教育」と「学問」の違いについて述べよ。
4 「受験秀才」とは揶揄か褒め言葉か。その理由も述べよ。

日本の教育行政はそもそも何を目的としているのか – カルトvsオタクのハルマゲドン/カマヤンの燻る日記 より引用

で僕の回答は以下。

  1. 日本人は自己の存在がどういったものか確定するために集団のどの位置にいるのか、所属及び立場を主たる材料にするから。
  2. 個人間における法律や経済に関する諸問題を、道徳もしくは倫理の階層で解決することが望ましいと日本人が考えているから。
  3. 学問は善き人生の暇つぶし。教育は子供という動物を人間に矯正すること。受験は試験を受けること、また一般的に高校及び大学入学試験を受けることを指す。私立小学校以下の入学試験は「お」をつけて区別する。
  4. 揶揄。反語表現。

端的に答えるならこの辺か。以下詳しくこれに至った経緯をば。3,4はこれ以上の説明は不要なので割愛。

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設問1、なぜ日本ではダブルスクール化が進んでいるのか?

本当にダブルスクール化が進んでいるのか? 進んでいるとすれば、それはどういう動機や需要があって成り立っているのか? という点を検証する意味も込めて、データをほじくり返してみた。

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第38回 小学校低学年から通塾する子どもの増加について – データからみる今と未来 – 研究員リポート – 2010年「子どもの教育を考える」- ベネッセ教育総合研究所 より引用
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子どもの学校外での学習活動に関する実態調査報告 平成20年8月 文部科学省 より引用

上は学年別の通塾状況。年々増加している。下は学年別の塾での指導内容だ。小中各最高学年では受験勉強、その他の学年では授業の補填である事がわかる。学年が上がるにつれ授業内容が高度になり、学校の授業だけでは不足し始める。次第に放課後の自主学習を余儀なくされる割合が中学2年には約半数に到達するようだ。学校授業と生徒の習得した知識「量」が乖離し、その補填のため塾を利用する。最高学年では「受験」という要因が新たに加わり、学校授業で習得した知識分野と各試験内容の差、「質」の乖離が生じ埋めようと通塾する。

学校授業が生徒の習得に応じて進行していないことと、受験という目標を含んでいないことが窺い知れる。前者の原因は大人数の集団授業と「教科書を消化する」という授業の進め方に、後者の原因は進学先によって入試内容(出題傾向)にかなりの違いがあり画一的な指導方法では対応できないためだろう。こう考えると、中学3年なら受験という要因を鑑みて必然性があるようにも思えるが、中学2年時で約半数が通塾しているということは実はものすごいことなのではないだろうか。これは僕の所感だが、多くの親や生徒自身はなにも主席を求めているのではなく、あくまでそこそこ授業についていけるようになるために塾を利用するのだと思う。

ダブルスクール化が進んでいる主たる要因は学校教育の粗さであると結論づけてもいいように考えられるが、それは早合点だと、僕は思う。先ほど挙げた二つの乖離を埋めることが需要としてあり、塾が供給している構図は読み取れるがそれが著しい増加傾向にあることの説明にはならない。昨今の生徒数の急速な減少と比較すれば緩やかな減少にとどまっているからだ。下の図は総務省統計局のホームページの統計表一覧 政府統計の総合窓口 GL08020103の在学者数及び教員数の数値から作成した。小中ともに生徒数は減少の一途だが、教員数は小学校で増加傾向、中学校では減少を持ち直しているのがわかる。

小学校教員生徒
中学教員生徒

これは生徒数と教員数の単純比較なので学校授業でのきめ細やかな教育を測るには些か短絡的ではあるが教員ひとりに対して生徒数が減少すればより個別的な指導が可能になることも事実だ。にも関わらず、学習塾の市場規模は減少せずむしろ増加している。子供の人口減少を物ともせずにだ。そうなると、生徒が実際どれだけ知性を涵養できていようがいまいが関係なく、何かしら別の根本原因によって塾に通わせている可能性が出てくる。何かしらの原因は僕が思うに、どんな集団に所属しているか、及び集団の中でどんな立場・位地にいるかが自己を確定させる文化にある。これも合わせてこれからは多分に推論。

おそらく、親御さんは我が子がどれだけできていようともクラスの中で芳しくない学力順位であれば、経済的余力を鑑みて塾に通わせることだろう。また、教育熱心と言われる親御さんであれば、社会全体から順位を算出するかもしれない。偏差値はどうか? 灘でなければ、東大でなければ上位に食い込めない、そう思うのかもしれない。

福田恆存は明治以来始まる我が国の公教育を出世主義だと批判した。長い間(150年弱)そういった歴史を選択してきた我が国では本来学問はそういった立身出世とは異次元であるはずが少し屈折してしまったらしい。新卒採用や自己紹介の際、職業や出身校を真っ先に聞くのがいい例だ。この長い期間を経て、所属及び所属内での地位の尊重は確立されたと僕は思う。

設問2、社会に出て必要な「法律」も「経済」も教科にないのはなぜか。

十七条憲法から始まり、明治の五箇条の御誓文並びに教育勅語が表す倫理観、つまり日本の伝統であり文化だと僕は思う。

まず法律に関して考えれば、法には二つの顔があると僕は認識している。ひとつは傍若無人な人の行動を規制するための束縛の顔であり、もう一方は常識や共通了解の文明化だ。我が国では後者を重んじる傾向にあると感じている。

その根拠として挙げるなら、身近な例では何か揉め事があっても警察はできるだけその場で解決しようとし、裁判に持ち込もうとなるにしても当事者同士の話し合い、示談で済ませればそれに越したことはないという慣習がある。裁判に費用がかかることもその拍車をかけている要因にはなっているが、裁判を起こしたと聞けばよっぽどのことだと見るのが我が国の常識だと僕は認識している。対比で考えれば米国が訴訟大国と呼ばれ、実際にも些細なことでも訴訟を起こし白黒はっきりつける気風があるのとは対照的だ。

そういった我が国の風潮はもちろん教育現場にも反映さるのは至極自然なことだ。法律のお世話にならずに済むのが一番良いとの考えから法律の知識を教育するよりも、道徳や倫理を養うのがまず第一だとし、優先順位を低く見られ、結果限りある授業時間から外されるに至ったと僕は思う。

経済も同様に、努めて働き、賃金や利益を上げつつ、質素倹約すれば経済や税の知識を涵養するに及ばずと結論づけることができる。ただ、経済の知識はマクロの視点がミクロに影響を多分に与えることが諸所経済学の研究で明らかになっており、それが政治レベルにまで落ちている現状を鑑みれば、議会制民主主義の我が国では、質素倹約の倫理観だけで対応するには無理が生じているのもまた事実で、有権者には投票の際、最低限のマクロ経済学の知識が要求されるに至った。だが、我が国の教育レベルはそれに追いつけていないのが現状だと推察する。ただ、これは教育行政の怠慢というまで批判できるものではなく、批判するとすればむしろ我が国の経済学の統一性や一貫性、信頼の無さにあると思う。経済学の主張や結論のブレが教育行政に混乱を与えていると言う方が正鵠を射ていると思う。

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