ミニマリストとは?

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minimalistを考える上で「最小限主義者」という直訳を僕は適さないと考えています。
少しミニマリストを考えてみたいと思います。

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もうすでに持たない暮らしは否定されつつある?

最小限主義者と聞くと、ヒッピーやバックパッカー、浮浪者なんかを想像してしまいます。このような状態に身を置くことはなろうと思ってもなかなかなれるものではありません。健康、安全、安定の維持が非常に難しくなるからです。文化的な感覚も邪魔をすることでしょう。自衛隊時代、天幕(テント)を設営して、その中で何日か過ごすこともありましたが、大変窮屈です。それに食は担保され、かつ仲間が大勢(百人規模)いるわけですから何かあっても安全でした。と言うよりいざという時にバリバリ働くための組織ですから、キャンプ慣れといいますか、頼りになる先輩ばかりでしたし。恵まれた環境だったと思いますが、それでもあれを日常として送りつづけるには相当なハードルがあると言わざるを得ないのです。

難しいことは往々にして流行りません。それに憧れを抱くほどのわかりやすい綺羅びやかさや美しさもなく、見ようによってはあるのでしょうが、非常に哲学的で取っ付きづらいのが最小限主義というものだと思います。

海外のminimalistを調べても、本気の人は尊敬されることはあれど、やはり「あれには僕はなれないな」という意見がもっぱらなようです。極限まで持たない暮らしは否定され、今は妥協点を探っている状態だと思います。minimalistになる方法はそれぞれの人で違うと言う見解を述べている者もいるようです。アメリカでは文化面でそもそも、例えば「american dream」に代表されるような、富・名声・力を持てるだけ持つことが憧れとされますから、その文化的背景を対照とする形で「less stuff」物をより少なくと言う考えに注目が集まるのでしょう。欲望のままでは際限が無いことを誰もが知っているからです。

さて日本のブログなど拝見させていただきますと、妥協の度合いが人それぞれで収集がつかなくなっているようです。

確かにホリエモンに代表されるような六本木界隈の成功者なる人々が目立つようになってはや久しいですが、ジャパンドリームなる言葉もまた生まれているのも事実ですが、日本人はさほどその言葉に期待をしていません。そう言ったmore richな考えが薄いものですから、アメリカ人のようにはless stuffと言われてもピンと来ない、コントラストが弱くてわかりづらいのが混乱の原因だと思います。

しかし、いずれにせよ、本当の意味での最小限主義はやや否定の段階にシフトしているというのが、2015年現在の僕の見立てです。

そもそも日本のほとんどはミニマリストなのではないか?

先ほど、対照として注目が集まったということを論じました。日本ではその対照差といいましょうか、それが薄いものですからミニマリズムという語がブレる。ということは少なからず日本人の国民性として、コモンセンス・常識、慣習的にミニマリストの傾向があると言うこともまた真なのでしょう。

「もったいない」だとか「宵越しの銭は持たない」だとか、「清貧」や「もののあわれ」なんかもミニマリストのいいそうな言葉のジャンルではありませんか。「徒然草」の著者である兼好法師のあの庵での生活はまさにミニマルではないでしょうか。時代は鎌倉、その頃にはすでにそう言った隠遁生活が認知され、貴族の中ではありましょうが、ある一定の価値観として認められていた状況が、今日にも古典として先のエッセイが残っていることからも伺えます。

そう考えると東洋では当たり前と言うほど身に染み込んだ文化としてミニマリズムは息づいているのではないでしょうか?
もし、持てる物を捨て人生の価値を高める、もしくは人生の意味を見出すことをミニマリズムとするならば、ゴータマシッダールタ大先生を外すわけにはいきません。釈迦は元はバラモン階級の出で所謂貴族・王族の類で非常に恵まれた環境で育ちました。その後四つの門で四苦を知っただとかですったもんだありまして全ての身分を捨てて修行の道を歩むわけです。

一方、Chinaらへんを見ますとこれもそういう類の人がやはり現れています。老子がその代表ではないでしょうか。この人はもはや歴史上の人物というよりは伝説上の人物ですが、この人が表したという「道徳経」を重んじる諸子百家がいた事は確かです。後に莊子が現れて、逍遥遊を謳います。逍遥遊は平たくいえば自由に散歩するぐらいの意味です。

これらの文化はもちろん日本にも渡って来ています。一方は仏教として、一方は遣唐使などの交易で文献が日本に渡来しました。そしてその思想は脈々と東の果ての島国で受け継がれていくことになります。

つまり、日本にはそもそも千年を越える悠久の時の経過を通じて、文化の中にミニマリスティックな思想が染み込んでいるのです。

ではなぜ今ミニマリズムなのか?

で、あるならなぜネット界隈においてではあるものの、ミニマリズムが注目を集め、実践し、広めようとする日本人が出てくるのか。もし、上で挙げたような文化が根付いているのであれば、「そんなの当たり前じゃないか」と一蹴されることでしょう。それがこうも反応として出てくるのは、欧米文化の流入に端を発しているように僕は思えてならない。

かつて「欲しがりません。勝つまでは。」というスローガンが日本全土に吹き荒れました。軍国主義を表す言葉として忌み嫌われています。ですが僕は勝たなきゃやられるんだと言う緊迫感、非情なリアリティがそうさせたことも事実でしょうが、それを納得して受け入れる素養が日本民衆にあったこともまた事実なのだと思っています。日露戦争時代、日本政府は重税を課しましたが、日本人はそれを受け入れました。金銭以上に大切なことがまだあった時代だったのです。僕はこれらの時代を清潔な時代と敢えて表現したい。

さて、終戦後高度経済成長期を経てバブルに突入しそれが崩壊しました。ざっくり五十年を言い表しましたが、この時代を表現した一文に使われている名詞は終戦を除き全て経済学用語です。それで概ね言い表せてしまう日本の戦後はまさに金銭の時代と言っていいでしょう。金、つまり紙幣や硬貨は物やサービスとの交換券です。物の時代が七十年も続けば文化として根を下ろすには余りある時間が過ぎたと言っていいでしょう。その証左にテレビや雑誌はこぞって物欲を掻き立てるものばかりです。それが流行りなのでしょう。

そのアンチテーゼ、古来より悠久の流れを持つ思想・文化のアレルギー反応として、ネット上の一界隈でミニマリストという言葉が飛び交っているのだと分析出来るでしょう。

日本人が行うべきミニマリズムとは?

そう考えるのであれば、日本人がミニマリズムを実践するのは欧米に比べ格段に敷居が低いと言えます。なぜなら、答えは歴史にあるからです。例えば、江戸時代の引っ越しを調べれば如何にそれが高度に昇華したミニマリズムか勉強させられます。

江戸の庶民が引っ越そうとすると持ち物は服と布団ぐらいだったようです。つまり肌に触れるものですね。他には何も入りません。ご存知の通り、昔は畳でした。江戸各地に畳屋はあるわけで、引っ越す前に畳を売って、その金で新居に畳を敷くわけです。ご存知の通り畳だとベッドもいりませんから布団だけで済む。他にもレンタルショップが点在していましたから、鍋やタンスはそれで揃えて用となす。服や布団ぐらいは当人が手で運べばいいわけですから引越し業者に頼むこともない。引っ越しが多いから家賃も上がらない。街全体が引っ越しに優しい環境になっていたんですね。おそらくそう言ったすぐにサヨナラ出来る環境だったから、江戸っ子気質のような言いたいことを言ってのける土壌が醸成されたのかもしれません。江戸庶民は現代で言うミニマリストだったのです。

しかし、これをそのまま現代に持ってくるわけにはいきません。江戸の生き方があれば、現代の生き方があるはずです。つまり、かつてヨーロッパがやってのけたようにルネサンス(復興)を企てることが、日本のミニマリズムの発展に寄与することだろうと考えるわけです。本家のルネサンスは相当に難しい作業だったと思います。なにせ、本家は千年という果てしない暗黒時代を経てましたから、七十年なんて楽な方だと思います。

さて、冒頭に僕はミニマリストの訳を「最小限主義者」とするのは異論があると述べました。それは今まで述べたように日本人の普通の生活の中にミニマリズムが溶け込んでいると考えるからです。ですから、もし僕が訳すとすれば「自活」や「自立」「独立」ぐらいでいいのではないでしょうか? 「隠遁」とまで言わずとも、ミニマリズムは十分に言い表せていると僕は思えてやまないのです。

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