理想のミニマリストを語る! 第二回「ミニマリストの文体」

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よく知っているところから始めようと思いました。群像に投稿したりしている鳴かず飛ばずの物書き目線で少々ミニマリストを論じてみたい。

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ミニマリストの文体のリズム

きっと、ミニマリストの文章があったとすれば、それは至極淡々として抑揚なく、しかし一文は短くスタッカートが効いているような文体であろうと思います。

僕の嫌いな小説家で「痴人の愛」を書いた谷崎潤一郎がいますが、「小説読本」の中で彼は上のような文体の例として志賀直哉を挙げています。

志賀直哉の「城の崎にて」の窓越しの屋根の上に死んでいる蜂をみて己の死生観を表した文章がこれぞ名文だと挙げられていました。僕も「城の崎にて」は好きで、短い文章だったのもあり、よく読みました。確かにその節は感慨深く印象深いものでした。

洗練されたと申しますか、削り取った、要らない表層を剥き切って出てきた一番芯の部分だけを無駄なく敷き詰めたような、そんな文章です。飾りがないと言いますか、ちょうど今あなたが読まれているこの飾りに飾った文章とは真逆の文章です。

志賀直哉の逸話で推敲の際に原稿用紙が減るというのを耳にしたことがあります。

ミニマリストの文章にはそういった削ぎ落とした美しさを、なにも志賀直哉になれと言えるわけもありませんが、その爪の垢を煎じて飲んだくらいは意識してほしいものです。

見た目の話

例えば、要らぬ改行はおそらく他のアフィリエイトブログの入れ知恵だとは思うのですが、そういったものは廃した方がいいと思います。もし、改行を適切な箇所に施して見づらいと思うなら、サイトのデザイン、行間の幅が足りないか、一行の文字数が多いか、それとも文字が小さいか、それかその相関関係かに問題が生じていると思いますので、Enterキーを連打するよりそういった工夫をしてほしいものです。

このブログでは、文字サイズを16px=1em、行間を1.63em、一行の文字数はMAX30文字、文字の色も本文は少し灰色がかったものになるよう設定しています。

僕の文書は冗長気味ですのでそこらへんでなんとかカバーできないかと思考錯誤しているのですがどう写っているでしょうか? 読みづらいでしょうか?

えらく長い文章にもげんなりします。という僕もげんなりされているだろうなと思いながらこれを書いているわけですが、ミニマリストたるもの要らぬ文言は切り捨てるべきです。

「これがいい」とだけ題し、写真を一枚載せているような、あとは読者に「日本人だろう? 行間を読め」と無言な高圧的態度を以って、品性を表現してほしいものです。

ブログのトップページの記事一覧を見るだけで内容が全て表現し尽くされているような、そんなもはや格言集のようなブログがミニマリストらしいとおもいます。続きを読むをクリックしてみても、一覧で表示されているディスクリプションがそのまま一文書かれているだけのブログ。クリックの意味がもはやないようなブログが望ましい。

そして、それが何かしらの興味をそそるような魅力、ないし読ませるような工夫が随所に凝らされている、そこまで行けばもはや文壇デビューしてほしい限りなのですが、それは理想的な、極めて理想的なひとつの美しい文章のあり方だと言える、と思います。

文語体で書ければなあ

ここで僕自身の話ではあるのですが、そろそろですます調が嫌になってきました。一文一文を綴るごとにこの「です」「ます」が嫌で、読点を打つたびに鳥肌が立つぐらい嫌なのです。

僕にもっと国語能力が備わっていたなら、もっと世の中が許してくれるなら、文語体で書くのが理想と思っているのですが、文語体にするとおそらくブログでは誰も読んでくれないと思います。ことミニマリストといういわゆるポップな話題を掲げている以上、そういう格調高い文体は毛嫌いされることは目に見えているわけです。

ですが、口語体と相対して文語体とは文章のための語という意味が付けられているのでありまして、やはり書くにはうってつけなのです。効率がいいと言いますか、先ほどいった無駄なく文章が書けるので文語体を現代日本人が捨て去ったのは、ましてや歴史的仮名遣いを捨てたことは、福田恆存先生を出すまでもなく、多大な損失だったと思います。

つい先日に福沢諭吉の「文明論之概略」を読みましたが、その密度に圧倒されておりました。同じ文字数でも圧倒的に情報量が多い。逆に言えば、それは読む側にとっては幸いで、短期間でより多くの情報を伝えるのは文字として誉でしょう。

今この時点でこの本文は原稿用紙にして5枚目を走っていると思いますが、文語体のような少々硬い文章で書き直せば半分にはできる気がします。それは読者の負担を軽減する意味で有効なのですが、いかんせん難しいのが、代わりにというわけではないでしょうが、気分が悪くなると思いますし、読んで疲れると言われかねないと思われるのが悲しいところです。

なので、折衷案をとりまして、ですますは止めにしようと思う。

話を戻せば、ミニマリストの文体として欠かせぬ要素としてわかりやすさを挙げねばならない。その文章が一読を以って理解できる努力は必要だろうが、僕が言うわかりやすさは平易な言葉を使うという点だ。

例えば、今の文章でも、「平易」ではなく「簡単な」と言えばいいだろうし、もっと踏み込めばやまと言葉を使うべきだろうと思う。漢語由来の言葉を使うとカクカクしたきちっとしたような難しい感じを受けるが、やまと言葉を使えばより柔らかく淑やかな文章になる。そういった言葉で一文でも綴ってみると格段に趣きある文章になる。

何よりそういった語を探すことによってより的確な言葉がみつかり、紆余曲折して表現しなければいけなかった文章も、一文で表せることはしばしばあることだ。

その時には推敲の作業が必要だろうが、僕はブログには一度しか演じない能のような楽しさがあると思っている。なので、あまりそのあと弄るのはどうかと考えていて、常日頃からの精錬な生活がその場のアウトプットの精度を上げるものだと信じている。でなければ、Twitterなんぞはとてもともて恐くてできるものではない。

誤字脱字の確認だけで良しとするくらいがミニマリストらしいのではないだろうか。

そのためにすることはより多くの名文に出会うことだ。先の例で挙げた志賀直哉しかり、川端康成、三島由紀夫などの近現代の文豪はもとより、石川啄木や中原中也などの詩の世界に足を踏み入れるのも面白い。近現代に限らず、古文の世界の麗らかな文章も非常に刺激になるだろう。

逆にネットの文章は文体を意識するのであれば極力触れないほうがいい。直近で読んだ長編小説に文体が引っ張られるのを経験されている方は多いのではないだろうか? どんな人間でも言葉は真似から入っているためか、映画を見てその主人公の口調に自然と釣られたりするが、文章でももちろんその現象はおこるのだ。

理想は己が紡いだ言葉が読者の文体を傾かせるような、そういった影響力のある文章だ。もちろんそれは理想である。ただ、そこに向かう努力は筆者としては怠りたくないところだ。

結論。ミニマリストの文体は格言のようである

イメージは漢詩が一番近いだろうか。「道徳経」のように語るブログがあれば是非とも読んでみたい。ブログ小説ぽいことで有名な「枕草子」だが、春はあけぼの…夏は夜…と言った具合で端的でわかりやすく、かつ共感を呼ぶようなそういった文章を理想に掲げたい。

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