僕がミニマリズムに期待していたこと

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前回、自称ミニマリスト炎上の顚末記を掲載してから幾日か経った。はてなでの話題は炎上それ自体に移ってしまったようだ。ミニマリズムは瑣末なことだと認知された結果だろう。そんなこんな時だから、僕がミニマリストに期待していたことを書きたくなった。

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日本らしいミニマリズムを

minimalism(米)とミニマリズム(日)は違うと言う話

minimalismを具体的に捉えるため本場アメリカをたずねてみた。“The Minimalists”のコラムを覗いてみると、具体的にインテリアや生活スタイルを総合的にプロデュースする形で、日常生活の中にみつける美や新たな価値観を提案していることがうかがい知れた。彼らがTEDで行ったプレゼンテーションでも、バリバリ稼いでバリバリ使う生活は幸福にはつながらないことを積み上げたダンボールで表現し「これは全部無駄だった」と言い放つ。非常にわかりやすい上、ライアンは元々1000万円プレーヤーだったことを合わせると説得力もある。他にグラハム・ヒルの「物は少なく、幸せは多めに」のスピーチでもアメリカの現状の問題点(住宅地の面積が三倍になっているにも関わらず個人向け貸し倉庫が三倍に増えている)を挙げ、それに対するこれからの米国人の生活スタイルを、見た目にも懐にも魅力ある形で提案している。いずれにせよ、アメリカンドリームにNOを突きつけたのだろう。minimalismは社交(仕事)と私生活(余暇)のバランスを如何に取るかが主題になっている。

だが、これを日本にそのまま持ってきても意味がないというのが僕の意見だ。アメリカでは仕事は取ってくるものだが、日本では仕事は降ってくるものだ。マネー(=幸せ)のために”自分から”仕事を背負い込みすぎてパンクするのはナンセンス、だからスローダウンしようぜというのがminimalistだと考えると、”他人から”仕事(=苦痛?)が押し付けられてパンクしている日本人からすると、minimalismにならってスローダウンしようにも自分がどう考えるかではなく同僚や上司などの回りとどう折り合いを付けるかという話になってしまう。私自身がminimalismを如何に実践しようとも結局環境に拠ってしまうから、そのままminimalismを持ってきても理解を得るのが難しい。「そんなこと考える暇があったらさっさと仕事しろ」と言われるのが落ちだ。日本人みんながminimalistになるという方法は妄想できるが、机上の空論だろう。先のスピーチを聞いた僕自信の感想は「まあ金持ちはなんだってできるよね」というものだったが、みなさんはどう感じたのだろう。「余裕があれば」とか「雇われには難しい」というような感覚はなかっただろうか。minimalistとミニマリストでは前提が違う。

そこで、僕が日本のミニマリストに期待したのはミニマリストなりのminimalismの翻訳だった。

幕末明治初期の本を手に取ればわかると思うが、翻訳は血の滲むような努力の結晶と言っていい。数多の論争の末に出来た言葉もある(修辞など)。ひとりのカリスマが表現した言葉もある(自由など)。レトリックやリバティなんていわれてもピンと来ないが、修辞や自由と言われたり書かれたりしていればなんとなく意味が伝わる。伝われば人が使う。使えば形がよりはっきりしたものになる。よりはっきりしたものになったのをふと見ると日本っぽくなっている。これが翻訳の効果だ。

ミニマリズムはどうか。使われれば使われるほどわけがわからなくなっている。ミニマリズムという言葉自体が伝わっていないからだ。

だから、是非ともミニマリストにはミニマリズムを訳してほしいし、横文字でないと流行らないし格好がつかないと言うのならせめて定義付けするか、あるいは百歩譲って明確にミニマリズムを捉えた上で一貫して使って欲しい。

「最小限主義者」などの直訳は誰にでも出来ることで、そもそも直訳しても意味が無いからそんなのには期待していない。断捨離だとか足るを知るだとかは、ただかっこいい響きというだけで使っているように見えている。他にも、ブレない、芯のある、やりたいことをする、目的のために、人生を豊かにする、ミニマリズムは目的ではなく手段……。この手合はもはや脳内コピペだと思って記事を読んでいる。色々燃え上がっているときに期待していたのは自分の言葉で話して責任を持ってくれということだけだったが、それはもはやミニマリストではなく人として期待していることなのかもしれない。批判に真摯に答えることで浮き上がってくる像もあったはずだ。

ミニマリストのミニマリズムの翻訳にこれからも期待したい。

ミニマリズムは閑素

期待したいなんて、上から目線で偉そうだと思われているだろうと思ったので、以下は僕からのひとつの提案だ。

ミニマリズムを「閑素志向」と訳してみたい。

「ミニマリスト」という単語に初めて触れた時、僕は「茶道」「浮世絵」「職人」や、抽象的には「削ぎ落とした」「洗練」「練磨」「虚飾のない」などの言葉を連想した。僕はこれらの言葉にある種の美があるように感じている人間で、ミニマリズムもこれらに親しい美があるように思われて惹かれた。ここで言う美が分かりづらければ、「見える幸福」と思ってもらって差し支えない。

僕のミニマリズムのイメージと一番合致する言葉は「閑素」だ。それを含む言葉の「閑素高雅」「閑花素琴」から考えると、ミニマリズムは”飾らないこと”にほかならない(そうあって欲しいと勝手に僕が期待しているだけである)。

会長(id:dobonkai)の「簡素清貧」はとてもいいアイディアだと思ったのですが、「簡素」には精神の面が捉えられていないこと、清貧はまだ新しい言葉で流行語であることから、より古くから使われていて精神面をも満たすような言葉の方がいいのではないか、と探してみると「簡素」の横にすぐ「閑素」があり、これだと感じた。

光る金よりも、いぶした銀がいい。道具も最新のものをとっかえひっかえするような忙しないものよりも、使い慣れたものがいい。色はそう多くないほうがよく、原色は好まない。多くのことよりひとつのことを。八方美人より意固地に生きたい。振り回されるより無頼がいい。騒がしいより、群れずにひとりで。浅く広くというより深淵に。洗練された平凡は非凡のごとく。感情はどこまでも平坦な。宮沢賢治が懐に隠し持っていた「雨ニモマケズ」の一節、「イツモシヅカニワラッテヰル」が閑素な人間を表現しているように思う。

それならば、僕の価値観では非常に興味深く、そうありたいと願えるような代物だと思えるのだが、世間ではそうはなっていないらしい。ミニマリストだと名乗ればそれはミニマリストらしいが、それは僕が思うミニマリスト(閑素)とは全く逆で最も忌み嫌う虚飾以外の何物でもなくなってしまう。以前記事で独房の人と揶揄したが、何もない部屋は僕から言わせれば余計に騒がしくみえる。あれは閑素でもミニマルでもなんでもなく、「何もない」という虚飾を部屋いっぱいに飾っているように見えて仕方がない。違和感と言っていい。

ましてや節約の話をしているわけでもない。身の丈に合った生活を言っている。質素と節約は違う。そして、僕が言っているのは閑素だ。違和感、無駄、飾りと言った類のものを出来る限り削ぎ落として見えてくる生活なりスタイルなりの現れがミニマリズムに他ならない、と僕は思っているし、そういうものにわたしはなりたい。

ミニマリストを公言した?者の端くれとして、僕の意見を言ってみたが、どうか? 「閑素」。ミニマルではないだろうか。

おわり

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