常識が勝手になった話

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とある喧嘩の話をしたい。この前の記事では外国人に対しての意見を述べたので、今回は日本人のことについて。

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事件概要

僕が察知した時には大人の領分に移っていたようだ。

外はひどい雨だ。深夜の商店である。4歳ぐらいだろう娘と息子が奇声を発していたのに対し、松葉杖をついた中学生だろう青年が「うるせえな」と叱責したことが発端だった。娘に対する発言や行為に頭に血が上った母親Aは中学生の母親Bに対し謝れと怒鳴った。Bは冷静である。「さっきの店でもうるさかった。なぜ注意しないのか?」と反論し、むしろあなたが謝るべきだと断り、二者は一歩も譲らない状況に陥った。罵り合いで店内は騒然となる。

Bが店員に警察へ通報するよう要請。その間、Aの夫らしい男性とその取り巻き数人(6名?)が店の前に乱暴に乗り付け参戦。事態は拡大の一途をたどる。警察官2名が駆けつけ、その事情聴取中にもAとその夫は代わる代わるBと中学生に近づき罵声を浴びせつづけている。

状況はなお悪化し、警察官2名では手に負えないと応援を要請したのはこのころだった。

そして、Bの夫も参戦。ボルテージはともに最高潮に達し、要請は間に合わず殴り合いの喧嘩に発展。店内である。取り巻き、店員に警察官、他の客も手を貸して必至に2人を引き離していた。その際、後ろに控えていた中学生は騒ぎに押されて転倒し、傷が痛んだのか泣き出す始末。もう言葉で収まる次元は過ぎてしまった。

夫2人がなんとか拳を収めたころ、追加要員が到着。事情聴取する間、取り巻きはBに対し、「もうあなたが謝らなければ事態は収まらない」と説得する。だがBは「それは筋ではない。謝るなら向こうだ」と断る。通報を要請したBの警察に対する要望は早く帰りたいということだった。

Aとその夫は警察官に対し怒鳴るように自身の言い分を語る。場所は店の入口でもう営業どころではない。たまりかねた店員は警察官に対し「入り口は開けてくれ」と要請したようだが、「それどころではない」と一蹴されていた。

警察官の説得虚しく、Aとその夫は勢いを増すばかり。困った警察官は子供通しが仲直りすることで落着させようと企てる。

警察官仲介の元、Aの息子と中学生は対面し話合い、和平の握手をするに至る。が、そんなことは当然無駄に終わり、二者両親和解することなく1時間半ほどの対立の末、撤退。あとに残ったのは虚しさだけだった。

事件考察:知性や常識なき口喧嘩の虚しさ

この事件に遭遇した僕の所見は、収めどころで収まらない話は虚しいだけ、というところか。良識があればこんな訳の分からない展開には決してならなかっただろう。何度も訪れた落とし所は尽く無視された。

まず、娘息子が奇声を発して親がたしなめないのが頂けない。もし「前の店」で騒ぐ子を叱っていれば、周囲の人間を苛立たせていないはずだ。結果、イライラした中学生に娘が怒鳴られるなんて事態も起きなかっただろう。

よしんば、人様から娘が叱られる事態に陥ったとしても、その場で自身の未熟を認め、娘の代わりに自分が謝っていればそれでこの話は終わっていたのだ。だが、親は呵責の代わりに中学生の言い方へ向けた怒りを呼んでしまった。Aが「子供を守る」とぬかしていたが、この守るは子に対する非難や災厄から身を挺することで、攻撃が最大の防御の意味ではない。第一、その当の子供はおぞましい光景にさらされたままではないか。

怒る最中でも、常識や筋という感覚があればまだ救いはあったかも知れない。だが一方に、親の育ちが悪いか現在偉い人間になってしまったのか定かではないが、コモンセンスの欠片でも無ければ話にならない。「大きい子が小さい子いじめて恥ずかしくないの!?」というAの中学生に対する罵声があったが、ブーメランにも程がある。歳の差で言えば、Aと中学生の方がずっと離れているだろう。大の大人が子供をいじめて恥ずかしくないのだろうか。こういう手合がいる空間では、どんな正論をぶつけても彼女にとって正論でないと裁かれれば、それは正論ではなくなってしまう。この時点で、話し合いによる解決などもう望めない。

不幸は続く。警察官が実行犯か令状の対象でない限り力で拘束できないことを知ってだろうが、警察官が手を広げ壁を作るようにして制止するも、Aは問答無用でBに近づき罵声を浴びせ続けた。もし、警察官に対し少しでも尊敬の念があれば、両者を引き離し、飽きて終わる話で済んだのだろうが、残念ながら公権力は犬としか見ていない人間に対してはなんの効き目も現れない。むなしい、むなしすぎる。

なおもまだ止まらない。マイルドヤンキー的なAの夫の登場である。しかも子分を連れての来店だ。登場して早々事態を収める気などさらさらないことがわかる。事情を電話で聞いているのではないのか? 事務所に殴りこみに行くとでも言うのか? いるのは普通の主婦と中学生だけである。それに対して、家族のためひとりで駆けつけ、マイルドヤンキーに対して服を脱ぎ捨て拳を上げたBの夫には敬意を払いたいが、蛮勇でもあろう。2人を引き離すのに割って入った僕もそんな男に「手は出しちゃいけない」と唱えることしかできなかったのは歯がゆい。

もう話し合いで解決するなどできるはずもないのだから、二者を引き離して会話させず、視界に入れずでほとぼりを冷ますのを待つ他ない。その為に警察官が呼ばれていると言っても過言ではないだろうが、先程も述べたが警察官には身体を拘束する法がないのだ。だからAや夫は事情聴取の隙あらばBやその夫に近づき暴言を吐く。冷めかけた熱がまた再燃する。元を返せば、警察のご厄介になる話ではないのだ。身体拘束に幾分かの問題があるのであれば、帰宅命令ぐらい出せればいいのではないだろうかと見ていて感じた。

そして、酷い結末である。「子供通しが仲直りしているのだから親同士も仲直りしましょう」という結論に至るとは思っても見なかった。子の面倒を親が見るのが常識だろうが、ここでは親の面倒を子供が見たのだ。公権力に臣民が頼るのではない、公権力が臣民に頼るどころか子供に頼ったのだ。常識という共通了解を捨てた大人たちが各々勝手を唱えた結末は子供にすがることだったのだ。

結論

こんな茶番に付き合わされた子供はどんな大人になるのだろうか。深夜連れ回される4歳ほどの子供は、言い方が悪いにしろ悪いことを悪いと言ったことでお前が悪いと鬼の形相で罵られた子供は、父の乱闘でふっとばされる子供は、それを外から眺め続ける兄妹は、大人の都合で子供同士で謝り合いなさいと使われる子どもたちは、罵り合うことに必死で見られもしないのに握手させられ人形となった子どもたちは、一体どう育つのだろうか。

恐ろしかったのは、解散となった後、Aが商店で平気な顔をして買い物し続けたことだ。子供はまた騒いでいた。

以上

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