演劇の舞台設営をしている方と話した時の感想

シェアする

忘れないうちに文章にしておきたい。

大阪の難波、俗に言う「裏難波」と称される飲み屋街にあるバーでの会話。
たまたま隣席した男性で40代だろうか、芸大出身の舞台美術をされている方と日本の演劇事情について話が盛り上がった。
僕自身は映画はアマチュアレベルでそこそこ観てきたり作ってきたりしてきたつもりだが、舞台演劇に関しては無知で、観劇した経験さえも学生時代に青学のサークルの小屋での劇を観た程度の人間だ。
シェイクスピアもオペラなんかも触れたことはない。
ネット上に投稿されているパヴァロッティの「誰も寝てはならぬ」を聞いて「すげえな、生で聞きたかったな」と感想を漏らす程度の人間だ。

さて結論を先に言えば、日本の演劇界の未来は相当に暗く、つい最近報道にあった蜷川氏の喪失の影響は僕なんかが思っていたよりも深刻なもののようだ。
加えて言えば、大阪の演劇事情は東京のそれとは比較にならないほどに暗く、さらに演劇は経済状況を真っ先にかつもろに食らう業界であることも伺い知れた。

広告

日本の演劇界の暗いわけを聞いた

問題はトドのつまり資金繰りにある。
何をするにも金は必要になる。演劇ももちろんそれに漏れない。

演劇を公演するに当たって、小屋の使用料や小道具や美術にかかる費用は参加者の分担になっているようで、つまり人が集まれば集まるほど一人の負担が少なくなる。
ただ同じ舞台を使用するものでも、主演や演出などの要職とそうでない端役があるような演劇をするのだったら、誰でも主役になれるダンスやバンドに若い世代が流れてしまっている現状があり、どうしても人が集まらない。
人が集まらないとますます一人当たりの負担がかさみ、もっと集まらなくなる。
その上、ダンスやバンドに比べて、小道具や美術にかかる費用が馬鹿にならないので、元々高価な芸術であると言わざるを得ない。

才能というのはある個人を英才教育して開花できるほど明確なものではなく、やはり参加者数という分母に頼らざるを得ない。
分母が増えるほどに、才能ある演出家なりが出てくる数が増えてくる。
逆を言えば、分母の数が少なくなれば才能ある演出家は少なくなる。
才能ある演出家が少なくなれば才能ある演出家の中から頭角が表す天才もまた出づらくなってくる。

現状、若手の天才演出家が挙がらない。
これが演劇界の暗さにつながっている。

演劇は面白いことは歴史が証明していることを踏まえると、演劇が若い人の中で話題に挙がりづらい現状にあるのは、演劇それ自体は面白いが、演劇が面白いと思わせる演劇が存在しないことに帰結する。

それを考えると蜷川氏の喪失は相当な痛手と言わざるを得ない。
蜷川氏それ自体が十代・二十代・三十代に音楽やアイドルなどをかき分けてムーヴメントを起こせるか? と言えばNOだが、蜷川氏の演出に感化された特異な十代が発生することは大いにあり得て、その存在がカリスマになり得ることは十分にあっただろうことを思うと悔やまれる。

大阪の演劇事情

特に大阪の演劇事情は深刻だそうで、先の経済的に劣悪な環境、それを起因とする演劇参加者の減少、それに加えて大阪では他とは違ったところでも問題があるそうだ。

その話をする前に、前東京都知事の桝添氏の話をしたい。
この記事をご覧頂きたい。

これは氏がブロードウェイに赴いた際、「東京にもブロードウェイのような劇場街を作るべきだ」という趣旨の発言が記事の主題になっている。
さて、仮に東京に劇場街ができたとして一体だれがそこで公演をするのだろうか?
面白い劇は演じられるのだろうか?
客は動員できるのだろうか?
要は中身がないのだ。要一なのに要がごっそり抜けている。抜けているのは髪の毛だけじゃなかったようだ。

この話をその人にしてみたら、今度は全く真逆の話になってかえって来たのだから面白い。

大阪は逆に劇場が閉館

シアターBRAVAが本年5月に閉館した。
1000席を超える劇場のようで、これが閉館になったことは大阪の演劇界にとってはかなりの痛手のようだ。
橋本市政で色々な箱物が無駄だといって取り壊されたことも相まって、文化的(文字化するという意味)な物の居場所が縮小した。
これによって演劇の衰退に拍車がかかったと言って良いだろう。
隣席の男性が相当悔しい思いをしていることが表情からもくみ取れるのだから相当なのだろう。

大阪を観光都市にと、橋本徹率いる大阪維新の会が提唱していたのはカジノの建設だったと記憶している。
僕は文化的な物や事に優劣はないと考えてはいるが、幼稚か老成しているかはあると思っている(幼稚だというだけで悪いと決めつけることはできないし、老成というだけで良いとも決めつけられないし、逆もまたしかりという意味)。

例えば、カジノ(賭博)や性風俗がある。
これらは何も知らなくても、または少々の決まり事を覚えるだけで楽しむことができるものであると言える。
多分、小学生にも「21に合わせるんだ」と言えばわからないなりにも、数回の内にブラックジャックができるようになるだろうし、性風俗は3回も通えばおおよその事はわかって楽しめるようになるだろう。

かたや演劇はどうだろうか?
内容如何によってはシェイクスピアをわかっていないと楽しめないかも知れない。黒澤明の蜘蛛巣城はまさにその例に挙がるだろう。
絵画はどうか?
キュビズムや印象派の絵画群を写実主義や写真の発明抜きにしてとらえられるだろうか。キュビズムなんてそのまま観たらへたくそな絵にしか見えないではないか。
小難しいプログレッシヴロックのアンチテーゼとして生まれたパンクロックもそうだろう。
巨大ハリウッド形式の娯楽作品の反発とベトナム反戦の影響が色濃いアメリカンニューシネマ。
ヒトラーのことを一ミリも知らないでチャップリンの独裁者を観るのはどうだろう。ヒトラーを知ればより面白くなるのではないか?

そのものそれ自体からほとばしる何かをとらえて楽しむ事はできるだろうが、知性がその喜びを何倍にも膨らませることができることを現代人は知っているはずだ。
ゴッホの絵を理解するにはゴッホの書簡を読まねばならないと説いたのは小林秀雄だった。

何もカジノ(賭博)や性風俗なんて幼稚な物は一掃しろと言っているのではない。
カジノも性風俗も知性の一部であって、それを知らないと理解できない芸術その他があることもまた事実だからだ。
ただ、幼稚な物を拡大させる代償としての老成な物の縮小はあってはならない、と僕は思っている。
シアターBRAVA閉館と大阪カジノ構想が同時期に現れた事は嘆かわしい巡り合わせと言うほかない。

広告