やっぱりお茶っていいよね

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僕はコーヒーも紅茶も茶も好きだ。味に関してはその日の気分でどれも一番になる。その他のところで色々考えるとお茶が一番いい。

烏龍茶やハーブティーに関してはそこそこの物を頂いたことがないので割愛。

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お茶って何度も淹れられるからいい

薄まるが、三度目までは飲めるのが茶。紅茶は味も素っ気もなくなり飲めたものではなくなるし、コーヒーもそうだ。それに紅茶もコーヒーもたっぷり贅沢に使わなければいけない。ケチってはいけない。その点、お茶はいい。同じように贅沢に茶こしにもりもり入れても2回3回と飲める。

それも味が違うから面白い。熱湯で淹れた一番は渋い。眠気覚ましにちょうどいい。2回目は適温で淹れる。渋み成分が茶葉から無くなっていて、旨味だけの一杯になる。3回目となると、もはや白湯にすこし色と香りがついた程度だが、これもサラッとしていて飲みやすい。ごくごくいける一杯になる。

とても経済的(ドケチともいう)

コーヒーや紅茶は何かもったいない気がしてならない。コーヒーの出がらしなら冷蔵庫の消臭剤として使えるらしいが、僕は臭いのするものがきらいでそもそも冷蔵庫にそういったたぐいがないから価値を見出だせない。腐る前に食ってしまうし。それに適宜入れ替えないとカビると聞くと面倒になって嫌になる。

その点、お茶は3回も楽しめているのだからもう十分な気がしてくる。二番だしとか、残った昆布を佃煮にするようなそんな気分。使いきった感がある。

砂糖を足さずに飲めるのもいい。僕は甘党でコーヒーや紅茶には砂糖が欠かせない。コーヒーに至ってはドバドバ入れるものだから友人と茶店に入って驚かれる。いや、気持ち悪がられるほどだ。それにミルクもほしいから尚面倒だ。牛乳かフレッシュミルクを常備するとなるとそれだけ幅をとるし、気にもかかる。豆はあるけど牛乳はあったっけ? といった具合だ。

逆に、砂糖を入れても美味しいという懐の深さがあるところがお茶は憎めない。お茶目なやつだ。世界的には茶類には砂糖を入れて飲むのがスタンダードのようだ。英国の紅茶にしろ、インドのチャイは甘く、支那の方でも烏龍茶が甘いらしい。米国で無糖グリーンティが流行りだしたのはシリコンバレーやニューヨーカーなどのイカレタ連中だけで、もっぱら甘いのを好むらしい。日本でも麦茶に砂糖を入れるところがしばしば見受けられる。そう考えると砂糖無しで飲めるというのは実に特殊で、ますますお茶のハイブリッド感が増す。

冷めても飲める。

アイスティーを一度でも作ったことがある方なら、冷やすことがなかなか難しいことを知っているはずだ。タンニンだかカフェインだかがくっついて、渋み成分が冷えると白くにごってしまう。クリームダウンというやつだ。市販されているような透き通るアイスティーは結構難しい。綺麗に淹れるにはアイスティー用の茶葉を選び、短時間で抽出するだとか面倒極まりない。

アイスコーヒーも豆をアイスコーヒー用の濃いものを選ぶ。大量の氷の中にぶち込む分薄まるからだ。このセットを用意するのも大変だったりする。

一方お茶はやかんを冷ませば出来上がりだ。すぐ飲みたければグラスに氷満タンでおkだ。簡単至極。まあ、最近は水出しのアイスティーorアイスコーヒーもうまいのでどうとも言えない。

汎用性の高さ

似合う場所が茶類にはある。

コーヒーの似合う場所、紅茶の似合う場所、それぞれだ。だが、お茶は場所を選ばない汎用性がある。遠足の水筒にコーヒーを入れているやつがいれば殴りたくなるだろう(なるのか?)。確かに、一服にはコーヒーが最適だろう。ケーキには紅茶だ。そういったホームグラウンドでの勝負には些か後塵を拝すだろうが、お茶にだって羊羹・せんべい、ご飯に最適だと言えば一蹴できる。何より、お茶からすればアウェイであっても善戦する、一矢報いるところが日本らしいではないか。

パンにお茶は合うまい。だが、そこで砂糖を入れた甘めのお茶であればケーキにだって対抗しうる存在になる。「ケーキと紅茶が合っているのではなく、砂糖とケーキが合っているだけなのでは?」と審判員に錯覚させられるところにお茶の存在感がある。

ラテという分野にもお茶は果敢に勝負している。抹茶ラテがニューヨーカー(二度目)に人気があるとなにかどこかの映像で見たことがある気がする。喫茶店で茶筅を回す日も近い。

そして、お茶の聖域へ

千利休が「わび茶」なる世界を構築し幾数百年。お茶はもはや宇宙を見ている。地球上でどうこうしているその他お大勢とはもはや一線を画した別格の存在へと転生している。

ヨーロッパも支那も味の言及に終始し、どう淹れればおいしく頂けるかで研究は限界を迎えてしまった。方や、お茶はおいしく淹れるのはもちろんだが、それを取り巻く環境、すなわち茶室。様式を整えることで生まれる緊迫感に似た空気。お茶を中心とする宇宙、すなわち太陽の周りを地球その他が回っているような、そんな宇宙観を垣間見たのだ。もはや意味がわからない。

意味はわからないが、それによって刀を抜けない状況を作り出し、話し合いの場として活用されるに至ったのはまさに文化的であるといえよう。

お茶は3回目までは飲めると言った下賤の世迷い言から政治的指導者の語り場たる高貴に至るまでをそっくりそのままくるんでくれる器の広さを有している。

さあ、お茶の時間だ

急いで水を沸かせ。熱い湯で茶碗を温めるのだ。

その少々冷めた湯で茶を淹れろ。臆するな、茶碗に入れた量をそのまま入れるのだから分量に間違いはない。

一分も待ってはならぬ。時は金なり。茶は真の用たる交際の時間を奪いはせぬ。さあ、注げ。最後の一滴まで注ぎ切るのだ。

うち出たる翠緑で喉を潤しつつ今宵も平和を語り合おうではないか。

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